様変わりした弘済院  2021年1月26日

♣ 独 行“三分割した豊中吹田箕面巡り歩き” ♣

乃公 24歳の砌 は元気に闊歩した三市(豊中・吹田・箕面)巡回コースを、寄る年波のため2分割で歩こうと意を決し、 旧臘12月4日 宮山の春日社から西国街道を歩き小野原から三ツ辻へ。次いで 1月15日 には同じく春日社から昔の下宿T家・辻の碑を経て三ツ辻。以上2回で完結の筈だったのに津雲台でへたってしまい、今日そのリベンジとは相成った。最近とみに“リベンジ”が多いが、理由は二つ。体力低下と呆けである。。。旬日前の呆け取り戻しウォークに、いざ、出発。バスで。


津雲台7丁目BS。向こうに阪急バス千里営業所。〔ほぼこの道が旧街道〕


道なりに行くと名神の高架と斜交する。バス道を右に見送り隧道をくぐる。〔旧街道は直進していた。今や名神の下〕


隧道をくぐり直ぐ右折。このマンション付近はずっと森だった。


老人ホームの跡地は開発整地が終わっていて売り出し中の幟がハタハタとはためいていた。右の白いのはモデルハウス。手前は6丁目公園、向こう真ん中は弘済院特老ホーム。

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大阪市立弘濟院正門。onmouse-UP ここはもともと弘済院のど真中・正面だったが 先述の開発のため 隅っこに追いやられてしまった格好。


その昔アヒルだったかガチョウだったかが羽搏いていた池。背後は弘済院附属病院。この病院で循環器から委託されたMRIを撮ってもらって脳梗塞発見されたのが2003年。


昭和天皇皇后“行幸行啓”時の“御製”碑。早い話、昭和天皇夫妻が来はった時詠みはった短歌の碑。


弘済院附属病院前に建つ碑は弘済院病院の前身「大阪慈恵病院」記念碑が移設されたもの。


弘済院を出外れると名神に斜めにぶつかる。いまは名神を渡る橋と左の小山沿いの道に分かれる。


名神(中環)に架かる橋袂からMR山田駅を望む。


同じく橋の上から西・千里中央方面を望む。左はMR、遠く千里中央ランドマークの2つの50階ビルが見える。


橋を渡りMR駅下で左折。この辺からほぼ旧街道に沿う。

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北部水道事業所そばから三ツ辻BS方面。見難いが三差路を出て来る車の左のガードレールが世にいう♪トマソン♪物件「無用歩道」。onmouse-UP


三差路に二つ架かる橋の古い方「つくも橋」。NTに「津雲台」があり、一つ南のBSが「佃」。古い山田の“郊外”の相当部分が『九十九つくも田』だったに違いない。


三ツ辻の五差路。左手前の石碑 が 右奥「小野原街道」と「山田街道」の分岐点にあった道標。開発前の話だ。

そんなことで、60年前には平気の平左衛門で一気呵成に一周したこの三市にまたがるコースを、60歳年を取ったと言いながら三回に分けないと歩けなくなった。これを“跋渉・踏破から闊歩・逍遥を経て彷徨・徘徊に至る道”と言わずして何としよう。

=津雲台7丁目BS→弘済院→三ツ辻→

三ツ辻からバスで帰るべしとBSを見たら何と、南行きバスのドアが閉まったところ。これは“まっすぐ帰るな”との何かのご託宣か はたまた思し召しか。


Lハイツに上がってロータリーを右へとり、先日見逃した愛宕のお社を久しぶりに再訪。これもリベンジなんだ。


山田に坐す愛宕神社。聞かずとしれた火伏せのお社。そういえば京都の愛宕さんに登ったのはいつだったのだろう。


京都はいざ知らず、山田の愛宕さんはマンションに囲繞され、わずかに南方が開けている。お社の後ろに五輪塔や石仏が大事に祀られていた。

今日の総歩数 11,383 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら