ㅤニュータウン予定地を歩く  昭和36(1961)年6月某日ㅤ

 

写真についての思い出はいろいろあるが、まずカメラを初めて買って、あてもなく歩いたのがその最初である。
 そう、豊中→吹田→箕面→豊中 と歩いたのだ。【本稿2013年作成】




当時豊中・T家に下宿していた。ある日何を思いついたか、カメラを提げて梅花から熊野田に出た。


そうだ田植えをしていたから、その時期だった。タイトルに6月と書いたが、5月だったかもしれない。




熊野田の町中のお地蔵さん群。これは21世紀のいまも現存する。


遠景に低層の集合住宅、そう、団地が見えていたのは東豊中だったのか。このころまだ集合住宅としての公団住宅は珍しく、ある種“ステイタス”だった。民営のマンションなど無かった。


吹田・三つ辻へ歩く。二の切を通り、新田集落を抜け、射撃場あたりから吹田市。よく見ると左端の標識は『大阪府クレー射撃場』。そう、この辺はこういうものがあったのだ。


やがて大阪市立弘済院にかかる。前庭には鵞鳥だったか家鴨だったか、とにかく白い鳥が数羽噴水のある池に居た。此処へは国鉄吹田からボンネットバスが一日数本?走っていたとはY子さんの記憶。


しばらく写真を撮ってから間もなく三つ辻。様子は覚えていないが“ウン、これは確かに三つ辻”だと合点したことだけ記憶にある。


ここを左折して北行。溜池の遥か向こうに箕面連山。


新田から弘済院ルートでは見かけなかった「府有地につきみだりに立入を禁ず」の標識があちこちの田畑に立っている。ということはニュータウンがまだ出来てなかったか、今の佐竹台付近だけでとどまっていたのか。そういう時期だった。因みにここは三つ辻の北だから、多分いまの藤白台あたりか。


箕面連山に向って歩くと溜池だらけ。どうやらこれは水遠ずいおん池か?


・・・ということはこの道は今宮へ向っているのではなくて小野原への道らしい。やがて吹田・箕面市境。


ひと山越えるとそこは今宮・・・ではなくて小野原。開発で変わり果てた現在の地区を同定することは至難の業。


集落の中を一人の農夫が牛を追って歩いていた。これって今はあり得ない風景。


やがて西国街道、今の171号線に出る。さして広い道路ではなかったが結構トラックは走っていた。


暫く行くと箕面霊園。今は箕面墓地公園というらしい。


今宮の柳谷観世音菩薩碑。眼病に霊験あらたかという楊谷寺の講の人が建てたという。


(これ何だったんだろう)


西国街道にたつ萱野三平旧居への案内標識。


萱野三平旧邸で入場。忠孝の板挟みの中で自刃した義士の一人に思いを馳せた。


古い説明板
『萱野三平旧邸/当旧邸は萱野家往時の居宅の一部にして門長屋なる本建築物のみ僅かに残存せり。元禄十四年三平の赤穂を辞して郷に帰るや日夕こゝに起臥しひそかに同志と策応せしも志遂に成らずして翌年正月室内に於て自刃せり。本建築物は其後年所を経て一部改造修理を施したるもよく旧態の保存に留意せるものなり。/大阪府史蹟名勝天然記念物等保存顕彰規程により史蹟として指定す。/昭和十五年四月二十六日/大阪府』


長屋門西部屋の横に残っている三平の辞世の句碑。涓泉けんせんは三平の俳号。

       晴れゆくや日頃心の花曇り 涓泉


牧落東のバス停で左折し豊中へ。背後の電信柱みたいな高く聳えているのは陸上自衛隊通信基地のもの。2005年に閉鎖された由。


そして間もなく箕面・豊中市境標識。


折々に撮った写真が当時の歩いたルートを思い起こさせてくれる。“気の向くままに”歩くことの多い乃公だが、そのきっかけは実にもってこの時にあったといって過言ではない。