二ノ瀬ユリ道  昭和60(1985)年10月20日ㅤ

今日はDMCが2:30から出町柳であるため、それまで北山を少し歩こうと考え、京都バスに時刻を確認、雲ヶ畑(くもがはた)行きが三条京阪8:24発(次が10時台)であるので早起きとなる。
 5:50起床、阪急河原町から京阪四条へ。すぐ電車がきたので8時ごろ三条着。バス乗場で切符(410円→雲ヶ畑出合橋)を買い、並ぶ。乗場には手製の札がぶら下がり、「雲ヶ畑行き(37)バスにお乗りの方は2列に」云々の表示。すぐ行列ができる。ウロウロしないですぐ並ばないと、坐れなくなるから注意。(なお、花背方面は7時台と10時台しかなく、大阪からは大変である。)
 まもなく係員2人がマイクで誘導する中を乗車。満員で発車。高野橋から北大路で一杯になる。途中で気分が悪くなる人も出て大変。産大の傍を通り、山に入ってから暫し、

9:20出合橋着。
 松尾谷との出合いだから出合橋。藁ぶき屋根の山間にしてはキレイな家が数軒。(ただし売店などはない)いずれも山林業にたずさわる家と見た。

橋のたもとでバスの写真をとり、右手へ林道を歩き出す。舗装されており、都会の道と変りない。違うのは車が通らないことだけ。三々五々同好の士が歩いている。5〜60歳の、それでいて完全装備のジイさん、3人連れのギャル、炊さん用具を下げた10人余の男女グループ、いずれもウロウロしている中をサッサと歩きにかかる。

流石に北山である。杉並木に次ぐ杉並木、間伐材の山、直径1mになんなんとする大木、これからという細いもの。いずれも下枝を払われて、谷あいの細い空に一直線にそそり立っている。時々材木を運ぶケーブルが谷の上空にはり渡されている。

9:45魚谷山への林道を左に見てまっすぐ(東向)直谷への地道の林道に入る。ここで完全に1人となる。時おり振返るが、誰も来る気配がない。道はゆるく登りである。出合橋からずっとこんな工合で大分高度をかせいでいる感じ。風は山あいで冷たく、一向に汗をかかない。ただ人が後に来ないので少々心細い。
 やがて直谷は大きく左(北)へ直角カーブする。ここで右手に川を渡って登る樋ノ谷道が地図上にあるのだが、一向に見つからない。谷は深く、峠とおぼしきところは遥か上。よくよく考えれば、最新の案内書にある木馬道(きんまみち=木でつくった材木搬出用のレール)などどこにもない。

そうするうちに直谷すぎだに山荘(名前負けしそうなボロ小屋。人の気配があったが顔を見ず)を過ぎる。遠くに工事の音がする。道に土がおちているので林道工事と見当をつける。“ハハア、この工事で木馬道がなくなったのか!”

 工事用材のそばで石垣用のネットを揃えている工事人夫2人と話を交わす。フト気がつくと、傍にかの麗杉荘れいさんそうがあるではないか。校倉造のシャレた建物で、北山の父といわれる人のレリーフがあった。いずれも工事用材の中に埋もれて哀れな恰好である。この林道工事はどこまでかと聞くと3〜400m上流迄という。
 小舎の壁に次の掲示板が打ち付けられてあった。★麗杉荘/この小舎は昭和十年、“北山の父”といわれた 故森本次男(筆名朝史門、元京都府山岳連盟会長、二高・西京商業高校教諭)氏によって建てられ、京都北山を原点に世界の山々へ巣立って行った岳人たちの「心の故郷」ともいえる由緒ある山小舎です。/氏の没後、京都市立西京商業高校及び紫野高校の管理を経て、現在は京都府高校体育連盟の委嘱により、京都市立伏見工業高校及び京都府立東宇治高校が管理にあたっています。/使用される方は前記二校のワンダーフォーゲル部に御連絡下さい。/失われるとかけがえのない小舎です。大切にしましょう。

案内書には麗杉荘より3〜400m沢とびで登り、右の谷へとりつくとあるので、丁度その出合いあたりまでの工事だろうと見当をつけ、ぬかるみの工事道を辿る。1人工事人夫がいたので道を確認するが、はっきりとは知らない。右側の細い谷と覚しき所でなるほど工事は終っており、本谷をみてもトレースがない。
 ミカンを1コたべてから、エイままよとばかり右の谷に入る。狭く、潅木が倒れかかり、雨のあとでぐっしょり湿っており、分けるのに一苦労。一寸進むのにも時間がかかる。茨をつかんだり、小枝で顔をはねられたりしながら200mばかり上ったところでジュースの缶をみつける。ああよかった、人が通ったあとがある。フト、左を見ると左の支谷に踏崩し跡がある。ヨシとばかりに踏み込む。ところがあにはからんや10m位登ると行手はカベとなり、手掛かりすらない。やむを得ず引き返す。
 再び登り出すが、潅木は左右から交互に出て網の目のようになり、行手をはばむ。汗は流れ、心臓は波打つ。10歩行っては休み、また踏み込む。
 そうこうしているうちに、右手の斜面を登って杉林に入ったら尾根道があるかもしれないと思いつく。やおら谷を抜けだして斜面にとりついたところ、これがまた難物。先日傷めた左腕(DMCの帰り四条河原町でバス降車の際ドシャ降りで歩道で転倒、左腕を強打したこと)をかばいながら登っていたが、そのうちに痛いの何のといっておれなくなり、カメラがあちこちにぶつかるのもかまえなくなり、もう尾根に出たい、その一心で必死。ふと時計を見ると麗杉荘の上300m地点で遡行しだしてから30分たつ。たしか30分では滝谷峠への道へとび出すとあった。だのに一向に峠道どころか、それへの小径すら見出せない。
 ようよう尾根に上がり、小径がみつかった。思わずへたり込み、お茶をのむ。一息ついたが、まだ本道に出た訳ではない。果してこの尾根はどの尾根だろうか。地図によると、登るべき沢(谷)の右の尾根で、これを詰めれば滝谷峠に出れると読んでいたのだが−。あとで電車に乗ってからこれが誤りであることに気付いたのだ。
しばらくすると背丈ほどもある熊笹のブッシュになり、小径は消えてしまう。しゃにむに分けてゆくとポッカリ東(薄日からそう判断)に山が見える。しかし東南にある筈の叡山が見えない。サア大変、まちがえたか。それから暫く右へ左へブッシュの中を右往左往。足をからまった笹にひっかけて転倒すること一再ならず。もう致し方ない。とにかく東側へ出て、万一道がなければ谷におりよう。少なくともその谷は貴船川の水系へ出れる筈−そう心にきめ一心不乱。倒れて栗のイガで突いた掌や、トゲのささった指などおかまいなしに踏みわける。
 突然目の前にポッカリとキレイな道。あたりに人がいないことを幸いに思わず歓声をあげたものだ。時計をみると沢登りから約1時間。大体倍の時間を費やしたことになる。
 一息入れてから右(南)へ歩き出す。しかし地図上である筈の滝谷峠は一向に現れない。これもあとで気付いたのだか、この時飛びだしたところが滝谷峠より東南の位置だったのだ。−つまりそれだけ余分に、盲滅法にヤブコギをしていたらしい。
 しかしもう先は見えた。ただ歩くだけでよいのだから。そのうち前からグループが来る。ホッとして、今日初めて「今日は」と声をかけあう。

また行方に山が見える。よくよく見ると、高い、双コブの山の上に何か建物らしいものがある。ひょっとするとあれは比叡・四明嶽の廻転展望台では?そう考えると解けた。この角度(北西)から叡山を見ると、ほぼ東西に長い叡山の頂上は横長に見え、大比叡のピークと四明嶽のピークの両方が連なって見えるのだ。我々はふだん、京都市内から独立峰としての秀麗な山を見ているから、錯覚しただけなのだ。北山を歩くときの目印としての叡山はこうなのだ。これが新しい発見だった。
 ややあって、伐採あとの見晴らしのよいところでアンダーシャツをとりかえ、ジャンパーをじかに羽織る。シャツはリュックにくくりつける。お茶はここでなくなった。この間に4ツ位の坊やを先頭にした家族5人連れに追いこされる。

二ノ瀬ユリ道(山腹を縫う道=丹波方言)をただ行くだけの単調な行程がつづく。次第に道は下りとなり、僅かずつ右ヒザが意識にのぼってくる。次第にギク−ギク−と。

下ったり、少し登ったり、時には左右に分岐する道を見ながら一気に南下する。 貴船神社の集落が、遥か左下の木の間に見えかくれする。
 左中景の双耳峰は鞍馬山。右ピークは標高584m。(2011年注記)
 更に南下。左の山腹に“鞍馬山松茸組合”のナワ張りがしてあり、入山を禁ずるとの貼紙がある。果して松茸があるのかな−などと考えながら更に下る。 次第に人の声がきこえて来、やがて「今日は」をかけ合って行きすぎると、夜泣峠への分かれ道。写真をとって二ノ瀬への道をとり、更に下る。

お宮の朱の垣が見えてきてホッとした。よく頑張った。踏切のところで、夜泣峠から下りてきた先ほどの親子連れと一緒になる。

川まで下りて、右100m余りのところを更に右に上がると、そこが京福鞍馬線の二ノ瀬駅−無人駅−である。
 人のいないホームでシャツを着、靴をスリッポンにはきかえ、登山靴をザックにしまって電車を待つ。(電車は毎時15分、45分)
時計を見ると1:30。登りの苦闘を入れて4時間。案内書通りの時間になった。しかし道がはっきりしていれば、疲れも少なく、3時間半で踏破出来たろうと思われる