「乗り鉄」と式内社巡りと  2020年1月13日

♣ 独 行“久宝寺から平野へ歩く” ♣

【緒言】おおさか東線は南半分が開通してから数回利用したが、昨春開通した北半分は未だ経験がない。今日快晴の空を見て全線乗ろうと決めバス→吹田北口→新大阪経由でスタート。ところが新大阪で奈良行き快速にギリギリ間に合っていたのに、何故か、向かい側に停まっていた各停に坐ってしまって、快速のドアが閉まった時点で気付くという情けなさ。ま、そのお陰で人目を気にしながらではあったが駅名表示板を全部写すことが出来た。

↑新大阪→南吹田→JR淡路→城北公園通→JR野江→(おおさか東線2019年3月開通区間4駅)鴫野→↓

蛇足ながら、2008年に一部開通した区間は、放出から 高井田中央-JR河内永和-JR俊徳道-JR長瀬-衣摺加美北-新加美の6駅(→久宝寺)。

久宝寺駅を南から望む。

【さて】今日の主目的は跡部神社。カルチャー教室で「中河内を根拠地とした物部氏の滅亡」と題した2002年2月例会のときさっと一撫でしただけだったことを思い出し、それが久宝寺駅に近いことから再訪することにした。あとは5-6km以内にある社寺を参詣すれば1コースになるだろう、と。まずは当該お社へ。

まずは式内・跡部あとべ神社。主祭神は阿刀連の祖神・阿刀連大神と伝え、物部氏との関連が言われている。この近所は物部関連の史跡が多い。これは社頭鳥居

跡部(あとべ)~社 亀井の属村、跡部にあり。〔延喜式〕出。此所の本居~とす。【河内名所圖會】。拝殿

本殿(覆屋)

境内右手のクスノキの巨木。八尾市の保護樹木に指定されている。(左上写真左手のイチョウも同様)

25号線を跨ぐのは「阪和貨物線」跡。関西本線八尾駅から久宝寺駅を経て分岐、大和川沿いに阪和線杉本町駅までつながり、両線のバイパスの役目を果たしていたが、2004年に休止、2009年廃止されたという。こんな線があったことを初めて知った。

旧平野郷の環濠にかかっていた橋の一つ・樋之尻橋の親柱。ここ平野公園、というより神社の境内に土塁の跡が残っている。(ここで河内から摂津に入った)

式内社・赤留比賣命あかるひめのみこと神社。攝津名所圖會に謂う。三十歩~祠(さんじふぶのやしろ) 平野郷中野堂町にあり。〔延喜式〕に曰く、赤留比賣命~社。祭~玉依姫。例祭三月二十六日。夏日旱天の時、雨を祈るに霊験速なり。~木に楡の大木あり。左の社名碑府社杭全~社/飛地境内式内/赤留比賣命~社」、右は社頭鳥居

拝殿

本殿

手水鉢には「三十歩大明神」とあり、元禄十一(?)年の銘がある。ただし水は無く手水舎としてはリタイア状態。

“サンアレイ”平野中央本通商店街真ん中付近。400mあるアーケードはGoogleMapの航空写真でも確認できる。

その先にある道標(左面)「左 なかの/住よし/さかい 道」、(右面)「右 ふぢゐ寺/大峯山上 道」。近世の巡礼路のうち大坂から葛井寺を経て槇尾寺に至る道の分岐点だったこともあって、この近所に3基現存するという。

大念仏寺門前に到着。とは言いながら結構探した。だいたい本通商店街を真っ直ぐ西に歩いたのが間違い。5号線に出てそれ沿いに西北行が正解だった。

現在大阪府下に存在する木造建築中最大だと聞いていたので、1`先から見えるだろ、と。それが間違いで、。。案外見えないもの。

大念仏寺本堂(国の登録有形文化財)。当寺は融通念仏宗の総本山で本尊は十一尊天得如来という、乃公としてはこのお寺は知らなかった部類に入る。大源山諸佛護念院大念佛寺(だいげんざんしょぶつごねんゐんだいねんぶつじ) 平野郷にあり。融通大念佛宗本寺。本尊天得如來(ほんぞんてんとくにょらい) 永久五年丁酉五月十五日、大原良忍上人感得の十一尊曼陀羅なり。脇士左地蔵・右毘沙門。脇壇開山良忍上人像・中祖法明上人像・将軍家御代々~牌・融通無礙塔・當寺代々牌・常念佛開闢舜空上人像。(後略)と攝津名所圖會にある。

今日最後のターゲット・杭全神社社頭標柱。この「くまた」社名は“知らんと読まれへん”。因みに当社は式外社

大阪府指定天然記念物「杭全神社のくす」。樹高16.5m、幹周り9.4m(H23)。

大門。当社内で一番古い建物だという(鎌倉時代)。

拝殿

攝津名所圖會には次記の2社の記載があり、いっぽう明治になって社名を杭全神社に改めたことが分かっている。圖繪にはこう記される。
牛頭天王社(ごづてんわうのやしろ) 平野郷北の方にあり。此地の生土~とす。例祭六月十四日。
熊野三所權現(くまのさんしょごんげん) 同所に鎭座。側に若一王子・八王子を祭る。毎歳三月三日法會あり。(中略)〔社記〕に曰く、住吉郡平野郷は往昔杭全庄といひしを、嵯峨帝の御時坂上廣野麿に賜りて、裔孫永く茲に住居し、いつとなく廣野を所の名によび、後世に轉じて平野といふなり。牛頭天王は貞觀年中京師祇園より古松に影向し給ふ。其より地主~として崇奉り、影向松とは名付けたり。爾來此邑坂上七名の長當社を掌り、~宮寺六坊を建立し、弘法大師の法流を傳へて兩部習合の~祀を修し、毎年六月・九月、祭禮を行ひ侍りぬ。此郷の野堂町に薬師堂あり、全興寺と號す。聖徳王の草創にて本尊も御自作なり。野堂とは初め野中にありしより口稱し侍る。天王の本地佛薬師なれば世人奥院と稱しける。
ㅤ熊野三所證誠殿大權現社は、後鳥羽院の御宇建久元年三月三日、一人の山伏笈を負い來り、社僧に勧請の由を告ぐる。社僧これを肯はされば、當社四五町坤の方一木の松ありしかば、こゝに笈をかけ置き去りぬ。其夜今の社地に此松より光を放ちけり。笈掛松今にあり。又社内に梛(なぎのき)三本一夜に生じ、烏三羽飛來る、故に梛を~木と崇む。其時人々奇異の思をなし、かの笈を開き見るに、微妙端厳の尊容まします。即熊野三所權現と崇め、社を営み、例年三月三日例祭を勤む。かの山伏は役小角の化現なりとて、今行者堂に崇め奉る。後醍醐帝元亨元年當社の來由を叡聞あらせられ、鳥居の額熊野三所權現と書し宸翰を賜ふ。又當社の東五六町鹿内といふ所に、むかし魏々たる堂舎あり、これを普光山修樂寺といふ。年経て荒廃に及びしを、漸く觀音堂一宇、寺僧六坊残れり。應永三年今の所にうつし、大悲の尊像を崇め、六坊も今に相續して十二坊と成り、それより近隣十三村尊信厚く、霊験窮なく日々に新なり。

ㅤ杭全神社のサイトによれば、現在の祭神は 第一本殿 素盞嗚尊、第二本殿 伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊、第三本殿 伊弉諾尊 ということである。

Sample

本殿域は回廊によって囲繞され、第一第二第三殿前にそれぞれ中門が開く。左の第一殿前のみ鳥居が建つ。

本殿(左が第一殿。その向こうが第二殿)。第三殿は見えない。

標柱を入ってすぐ右側にあった「平野環濠跡」の標示碑。先の平野公園(赤留比賣命神社)にあったのと同じ土塁が残っていて平野川が環濠であったことを示す。

ここで14時前。一生懸命探すが適当なルヒシメ処がない。平野駅周辺にもたこ焼き屋か喫茶店しかなく、諦めて新今宮駅経由で山田駅まで我慢の子。下記今日の総歩数は行きつ戻りつした分を考慮すると多分1万歩を超える。

今日の総歩数 (5.3km÷0.65≒)8,200歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら