式内社より「ついで」先が大変だった  2017年1月4日

♣ 独 行“大和国高市郡の式内社巡り” ♣

今年も相変わらず歩く予定につき宜しくお付き合いの程願いあげる。ということで、式内社5社はともかく、道すがら否応なく目に留まる先、今井町の見事な街並み、神武・綏靖陵や橿原神宮は一瞥ないしはご挨拶で通過できた。が、『益田岩船』の名前を見かけてしまっては“一瞥”という訳には参らないではないか。飛鳥の酒船石や石舞台などの後期古墳群を含む巨石文化、その中でも最大級の益田岩船はその作成目的が未だ学界でも定説を見ないので有名。しかし飛鳥付近と異なりここはポツンと離れていてなかなか見学の足が向かないところである。それで「ついで」とばかり飛び付いたのはいいのだが、その「ついで」がどう「大変」だったのか、まずは経緯を御覧じろ。

11時過ぎ大和八木駅頭に降り立つ。最初一つ南の八木西口下車予定が、ここから近くにかつてH社取引先だったM薬局があるというので変更した。のだが結局見逃して「意味無いジャン」

てなことで近鉄踏切を越えJRガードをくぐって飛鳥川畔へ。蘇武橋から今井町シンボルの巨樹エノキ、そして街並みを望む。遠く畝傍山。

今井町には結局足を踏み入れなかったが、飛鳥川沿いに綺麗な公園が整備され、こういう日曜画家もいる。

今井町の街並みを出外れてまもなく今日の第@ターゲット・式内高市たけち御縣みあがた神社。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。今日このあとに訪れたお社と違い本殿周りにささやかな玉垣があるのみの簡素なものだった。唯一つ、鳥居が両部鳥居なのに稚児柱が片側しかないというのがチョッと珍しい。大和名所図会に謂う。「高市御縣神社(たけちみあがたのじんじゃ) 四條村にあり。今高縣宮と稱す。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。」

綏靖天皇陵(第二代)

神武天皇陵(初代)

橿原神宮境内にあると聞いていた「イトクの森」。「イトク」が「懿徳いとく」天皇(第四代)ではないかとの論もある由。実態は右上の囲いの中に祠があり、前方後円墳(30m)の後円部上に坐すという。

「畝傍山登山口」の立て札で一旦通り過ぎたが、実はここが次の参道なのだ。行先には橿原神宮初詣の賑わいしか見えず、慌てて戻ってここを入る。「参道表示くらいして下さいよ、喃」

畝傍登山道にかかる辺りに坐す第Aターゲット・式内東大谷日女命やまとおおたにひめのみこと神社。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。畝火山口坐神社の論社とも言い、この辺り多分に輻輳のきらいあり。桜井にも同名のお社が坐すが、何故か双方とも大和名所図会には見えない。☆当社は初めてと思っていたが2007年に既訪していたことが判明。デジャビュ皆無_| ̄|○

正月も4日というのに橿原神宮は初詣参詣客でごった返していた。遠く一揖しただけて通過。

深田池から近鉄南大阪線を越えて南へ1km余。小高い丘の上の杜を目指す。「いわくら」は「磐座」で聖なる石への信仰。なにかあるのかなと思いながら↓

Sample

第Bターゲット・式内巨勢山坐岩椋(孫)こせやまにますいわくら(ひこ)神社。左から社頭鳥居onmouse-扁額up、拝殿、本殿。【大和名所図会】巨勢山坐石椋神社(こせやまにいますいはくらのかみのやしろ) 鳥屋村東南にあり。今春日と称す。〔神名帳〕に出づ。何と本殿は2mになんなんとする無粋なブロック塀で囲繞され、屋根は見えるが、その坐す地面は実見することが叶わなかった。因みに社頭や境内には説明版はおろか社名表示すらなく、鳥居の扁額のみ。

さらに南へ1km余。小山の麓(98m)、標識には「史跡岩船」。階段は見るところ50段くらいか。しかしその上は遊びの無い竹林中の斜面だった。

メチャ滑るではないか。「もうイヤ」と思った頃竹林の向こうに巨大な黒い物体が姿を現す。「あれか」。

大和名所図会に曰く、益田池(ますだのいけ) (前略)三瀬村の西南の丘の上に碑の趺石あり。俗に岩船といふ。高さ二丈計(ばかり)。縦二丈五尺、横一丈二尺、上に両方の孔を鑿り一槽とし、碑身は今亡びたり。其銘は〔釋空海性霊集〕に見えたり。(中略)一説に曰く、益田の碑石は、高取城の石垣に積み込みありと古く云ひ傳へたり。しかれども凡(およそ)七里に廻る山城なれば、何方に在りといふ事を知るものなし。(後略)」図版こちら)。従来、弘法大師の益田池造築を称えた石碑の台石という説が専らであったが、近時@占星術のための天体観測台A火葬墳墓B横口式石槨の古墳など諸説があるがいずれも決定的な証拠がないという。実測では東西11m、南北8m、高さ4.7m(北側)の台形状。重さは160tといわれる。(Wikipediaによる)。この位置148mなので標高差50m。

右写真側ツルンとした側を表とするなら、こちらは裏側。何か細工した痕跡が見える。

カメラをセルフにセットし、岩にもたれて思う。「今日は式内社巡りはお添え物で、この岩船見学がメインだったのでは」この後下山に登りの5割増しのエネルギーを消耗した。

山を下りて次は一路東へ。歩いた順序は 境内→二の鳥居→一の鳥居→岡寺駅北踏切 なのだが、逆に並べて表示させてもらう。

東面する参道の向こうに鎮守の杜が雰囲気を醸し出す。手前右「孝元天皇軽境原宮跡(伝承地)」碑。踏切の左は近鉄岡寺駅、

一の鳥居。

今日の第Cターゲット・式内牟佐坐むさにます神社。大和名所図会に謂う。牟佐坐神社(むさにいますかみのやしろ) 三瀬村にあり。〔神名帳〕に出づ。今境原天神と称す。。当初生霊神を祀り後に生雷神から天神信仰、皇統譜諸神など祭神が入れ代わり立ち代わりの様相だったらしい。左から二の鳥居、拝殿、拝殿を通して拝した本殿。

東北へ石川池を回り込んで約1.5km。古い町並み(下ツ道?)を通り抜ける途中、右側に見瀬の丸山古墳が見え隠れするが、もう立ち寄る元気がない( ;∀;)。墳丘長300mを超え、前方後円墳では全国で第6位の後期古墳。因みに現地名の「見瀬」は先ほどの「牟佐」の音韻交替であるという。(m→m

てなことを言っているうちに、今日の最終ターゲット・式内大歳おおとし神社到着。ここはGoogle Mapにも記載が至極不十分で、実見して理由が分かった。現地に社名表示が全くない。名所図会にも記載がない。でも境内の雰囲気はなかなかのもので清々しいという形容がピッタリ。左から参道石段に続く社頭の鳥居、拝殿、今日珍しく正面に回り込めた本殿拝所。お供え物の存在から、当社は氏子さん、少なくとも大事にお守りしている人々が居られることが判った。

以上で本日の予定終了し、橿原神宮前駅へ。以前どこかのコンビニで秋刀魚鮨にありついたことがあったので、それを期待してあちこち探したが結局無し。駅に来たらどの食堂も満杯。ぐっと我慢の子で山田まで戻ったらここも空席が無く、そのまま帰宅。考えてみたら、今日八木を下りてから橿原神宮前で乗るまで1回も休まず、というか腰を下ろさず歩き続けたのだ。その時間大凡2時間半から3時間。ようやるよ、我ながら。

今日の総歩数 18,515 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら