曽我川沿いのお社たち  2016年5月19日

♣ 独 行“橿原市内の式内社を巡る” ♣

今週いっぱい晴れるという。昨水曜はSB新練習スタート日、土曜はAZハイク例会日、今日しかないではないか。ということで大和路の式内社巡りコースで最も社数の多いコースを選んで出発。4月にゴールにした真菅をスタート地点にして更に南へ向かうことにした。

10時半近鉄は真菅駅頭に降り立つ。

まずは今日のテーマ「曽我川」に因んで駅前の宗我そが都比古つひこ神社に敬意を表し通過。先月参詣済だが一応@

曽我川の遊歩道から遠く二上山を望む。

今日のA番目のターゲット・天高市あめのたけち神社。さっきの宗我都比古社もそうだったが社殿は東面する。左から社頭の鳥居、拝殿(扁額には「八幡宮」とあった)、本殿。当社は「曾我八幡宮」と通称されるという。大和名所図会にいう。天高市神社(あめのたけちのじんじゃ) 曾我社の南にあり。今高市八幡と称す。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。

Sample

間もなく曽我川を渡る。袂の道標「右たつ田法 」(龍田法隆寺?)。セメントでの補修が下手糞であと読めず。碑の上はるか遠く霞むのは金剛山。 onmouse-up

曾我八幡から1km足らずで今日の第Bターゲット・天太玉命あめのふとたまのみこと神社。当社は166号線(通称下街道)に沿い南面する。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。本殿は擁壁が立派過ぎて外から撮影出来ず、拝殿の格子の隙間から撮らせて貰った。延喜式神名帳に「太玉命神社四座」とあり後世「天」を付加したらしい。大和名所図会に曰く、太玉命神社(ふとだまのみことのかみのやしろ) 忌部村にあり。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。

曽我川を渡り返す。向こうの橋の東(左)袂が次のターゲット。

曽我川沿いに南下すると700m足らずで今日の第Cターゲット・河俣かわまた神社。当社は式内社・高市御縣坐たけちのみあがたにます鴨事代主かもことしろぬし神社といい、河俣神社は通称だとのこと。また一方 式内川俣かわまた神社の論社でもあってややこしいことこの上なし。大和名所図会に記す。鴨事代主神社(かもことしろぬしのかみのやしろ) 高殿村にあり。今大宮と称す。又鴨公森。天武天皇元年高市郡大領高市縣主許梅に神託ありて、こゝに鎮座す。〔神名帳〕及び〔三代實録〕に出づ。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。当社は神社には珍しく北面している。社頭の写真(click→up)でカーブミラーを挟んで左に鳥居、右に川沿いの道が見える。

境内二の鳥居傍にある万葉歌碑♪思はぬを思ふと言はば真鳥まとり住む卯名手うなてもりの神し知らさむ♪ 作者不詳(巻12-3100)。卯名手はこのお社の在所 雲梯うなて町のこと。

境内は鬱蒼とした社叢に守られ、西側は曽我川、東は田畑を挟んで環濠集落の名残を残す寺田集落がすぐ近く。「河俣」または「川俣」は河川の合流点の謂いで、曽我川に合流する古い川跡が南に隣接する。

更に川を渡り返して左岸を200mほど行くと、式内社・川俣神社のもう一つの論社である 木葉このは神社。今日のD番目のターゲット。もともと開化天皇の裔という川俣公を祀ったものらしいが、歴史の荒波の中で寺院の鎮守社となり、祭神を木花開耶姫コノハナサクヤヒメ命としたことから「コノハ」神社となったという説がある。そうな。川俣神社(かはまたのじんじゃ) 雲梯(うなて)村にあり。今川股八王寺と称す。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。【大和名所図会】

ここで今日のテーマ・曽我川を離れて畝傍山方面に足を向ける。このお山の周辺は欠史八代の天皇事績伝承が残る地。西からみるとそうかっこいい山ではない(真東から見ると鋭鋒そのもの)。AZハイキングに1時間先着してしまい、時間つぶしに集合時刻までお山を一周したことを思い出す。元気だった。あの頃は。

参道。畝傍山に登る感。デジャビュあり。当たり前だが。木葉神社からここまで1.8km。

社頭の万葉歌碑♪思ひあまりいたもすべ無み玉だすき畝火の山にわれはしめ結ふ♪ 作者不詳(巻7-1335)

今日の第Eターゲット・畝火山口うねびやまぐち神社(俗称「おむねやま」神社)。延喜式神名帳には畝火山口坐うねひのやまぐちにます神社として載る。いまは畝傍山の西麓に坐すが、頂上にお社跡が残ると同時に文献ではそれ以前“山腹”に坐したという記録もあってややこしい。確かなのは橿原神宮造営にあたり“恐れ多い”と言う理由で昭和15年山麓に下されたことである。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。独り合点ながらその佇まいと色合いから和歌山の丹生都比賣神社を想起してしまった。

畝傍山をくだり安寧陵前を通過、近鉄南大阪線の踏切を超えて、、というと遠いようだが今日最終予定にしていた軽樹坐神社へは1.2km。

今日の最終(F)ターゲットにしていたのはここ輕樹村坐かるこむらにます神社。ぐるぐる回ってしまったが小高い丘の上にありながら分り辛い。江戸中期に一時廃絶したと伝えられ、あと再建後は祭神も変わってしまっているようだ。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。因みに拝殿の扁額には「村」がなく「軽樹坐神社」となっている。(click→up) 大和名所図会に謂う。輕樹村坐神社(かるこむらにいますかみのやしろ) 池尻の属邑輕子村にあり。今社廃す。〔神名帳〕〔三代實録〕に出づ。

予定の橿原神宮西口へ行こうとして時計を見たらまだ12時台。“早いやんか”。気が変わり、NexusのGoogle Mapを探したらあったあった、2社回って橿原神宮前から帰ることにしよう。予定変更。まずは鳥坂神社。高取川沿いに1km。

築坂邑つきさかむら傳承地」の碑がたち、鳥坂神社が近くだということが知れる。

ここも軽樹村坐神社と同じであっけらかんとしたたたずまい。(G)社目のターゲット・鳥坂とりさか神社。式には鳥坂神社二座と載る。古代築坂が桃花鳥坂(つきさか)と呼ばれていたのが次第に省略されて鳥坂になったという。大伴氏につながる系譜が語られている。けどわからんことが多いナア。特にこれだけ寂れると。大和名所図会に曰く、鳥坂神社(とりさかのかみのやしろ) 鳥屋村の東にあり。今天照太神と称す。写真左から社頭鳥居(背後に畝傍山)、拝殿、拝殿の格子から覗いた本殿。

次いで今日ホントのラストターゲット(H)・久米御縣くめみあがた神社(ここまで800m)。久米仙人で有名な久米寺の門前にひっそりと鎮まるが、境内には社名などの表示が一切なかった(と思う)。久米氏の衰微とともに衰退し、隣接して創建された久米寺の鎮守社として再建。明治に入って分離したという歴史を持つ。大和名所図会にこう記す。久米御縣神社(くめのみあがたのじんじゃ) 久米村にあり。今天神と称す。〔神名帳〕に出づ。写真の要領は前と同じだが、今日詣でたお社の半分以上は本殿が拝殿の格子を通してしか撮影不可能だった。もともと神社の本殿ってそういうものだと言われればそれまでだが。

その久米寺。真昼の陽光のもと静まり返っていた。

ということで13時半すぎ近鉄橿原神宮前駅到着、駅構内で遅昼を済ませ帰途に就く。

今日の総歩数 16,298 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら