2015年 お社巡り  − その1 −

  

大和国添上郡・漢国かんごう神社 4月18日

社頭の鳥居。2012年に訪れており今回は再訪(こちら)。

大和国添上郡・率川いさがわ神社 4月18日

同前(こちら)。

大和国添上郡・率川阿波いさがわあわ神社 4月18日

同前(こちら)。

大和国添上郡・りん神社 4月18日

漢国神社境内社(饅頭の神様)

大和国添下郡・添御縣坐そうのみあがたにいます神社(三碓町) 4月18日

延喜式所載のお社だが、元添下郡内には同名の神社が2社現存し、両方とも式内「添御縣坐神社 大 月次新嘗」の論社である。もう1社は歌姫町にある(既訪)。因みに「三碓」という町名は難読地名の一。「ミツガラス」と読む。

参道の石段

境内。左は舞楽殿。社殿は西面する。

拝殿

本殿。率川神社同様本殿の前に品のない雨除け?庇がついていて、見苦しいこと夥しい

     

幸神社さいのかみのやしろ 4月11日

幸神社社頭鳥居。わが同志社の裏にこういうお社が鎮座ましますとは露知らなかった。右に慎ましく建つ石碑は「出雲路幸神社」。実は桓武天皇のころに遡る古社だが式内社ではない

拝殿。名前から縁結び祈願が多いとのことだが、「さいのかみ」というからには元来が道祖神。

拝殿内部。「さいのかみ」は「さえの神」。御所の東北に鎮まる鬼門封じのお社。

猿田彦さるたひこ神社(愛宕郡・出雲高野神社の論社の一) 4月11日

猿田彦神社は烏丸通から御霊神社への参道右側に北面して鎮座する。都名所圖會に曰く、出雲路神(いずもじのかみ) は京極の西、今出川の北にあり。祭るところ猿田彦命にして道祖神なり。いま幸(さい)の神といふ。旧地は京極の東なり」 これが当社か。

ちょうど家族連れが参拝中で旦那らしき人が拝殿前で祝詞(?)をあげている最中。扁額には「猿田彦大神宮」

本殿。猿田彦は天孫降臨のとき瓊瓊杵尊の道案内をしたと伝える。

御霊ごりょう神社(愛宕郡・出雲井於神社並びに出雲高野神社の論社の一) 4月11日

御霊神社正面鳥居。もう1社あるので(寺町丸太町下ル 下御霊神社)それに対して「上御霊神社」と通称される。都名所圖會にいう 上御霊社(かみごりょうのやしろ) は平安城鞍馬口通りの南にあり。祭る神は(早良親王・伊予親王・藤原夫人・文太夫・橘逸勢・藤原広嗣・吉備大臣・火雷神)等の八所御霊なり。朱雀院の御宇天慶二年に鎮め奉る。いにしへこの地は上出雲寺(かみいずもじ)なり。かるがゆゑに出雲路の御霊ともいふ。例祭は八月十八日(中御霊は京極通り廬山寺の南にあり。当社の御旅所なり)」

神門。このお社は西面する。憤死した人の鎮魂という創始事情に関係あるか?因みに下御霊社も同様。

舞楽殿。

拝殿。

本殿。

     

葛野郡・梅宮うめのみや大社 2月21日

一の鳥居。2011年に訪れており今回が再訪。調べると2011年も2月21日だったこちら)。

葛野郡・松尾まつのお大社 2月21日

松尾大社駅前にそびえる一の鳥居。再訪で前回は梅宮さんと同じ2011年2月21日(こちら)。

葛野郡・阿刀あと神社 2月21日

嵯峨南野町のマンション群に囲まれ、わずかに残る社叢でそれと知られるが、参道を探してうろうろ。境内隣の民家のリビングが丸見えと言う小さな境内にひっそり坐す。いままで詣でた式内社中最小か。

社殿ならぬ“社祠”

「式内阿刀神社」

左は丸太町通に面する参道入口。一度見落として行き過ぎた。社名碑は「式内阿刀神社」のうち下の「社」部分が埋まってしまっている。右はそれに続く参道(!)。北面している入口を入って右折し、東面するお社に詣でることになる。いずれにせよ、この2枚の写真からは「お社」の雰囲気はカケラも窺えない。

葛野郡・木嶋坐このしまにます天照御魂あまてるみたま神社 2月21日

嵐電通りに面する一の鳥居。扁額には「養蚕神社」と書いてあるという。字が難しくて読めないので鵜呑みにする。(参照)

社頭の二の鳥居と社名碑

舞楽殿

拝殿

微かに見える本殿。向かって右は併祀の「蚕ノ社」。この社名が通称となっている。

元糺の池に立つ三柱の鳥居。この意味・来歴については諸説あり。京都三鳥居の一で、神社に建つものとしては他に例がない。

都名所圖會にいう 木嶋社(このしまのやしろ) は太秦のひがし、森の中にあり。天照御魂神を祭る。瓊々杵尊・大己貴命は左右に坐す。蚕粮社は本社のひがしにあり。糸・わた・絹を商ふ人、この社を敬す。西の傍らに清泉あり。世の人元糺といふ。名義は詳らかならず。中に三つ組み合はせの石柱の鳥井あり。老人の安坐する姿を表せしとぞ。当所社司の説。(後略)

     

乙訓郡・走田はしりだ神社 2月17日

Sample

正面二の鳥居。実は真正面に大木があって道を塞いでいる。   onmouse-up

舞楽殿。当社は海印寺の鎮守社だったが応仁の乱で全焼した時点で途絶え、明治になってから妙見社を式内走田神社と変えて復活したという。

本殿覆屋と言うには異様な感のある社殿。“妙見のやしろ”であった時代の名残か。都名所圖會にいう。 木上山奥海印寺寂照院(こかみやまおくかいいんじじゃくしょういん) は粟生の南十町余にあり(中略)。妙見のやしろは西の山林にあり。この里の氏神とす。祭りは九月二十一日なり。

乙訓郡・小倉おぐら神社 2月17日

正面一の鳥居。扁額に「正一位/小倉大明神」とある。伝小野道風真筆
都名所圖會にこう記す。小倉(おぐら)のやしろ は円明寺の里、往還より十余町西の山林にあり。本殿は正一位小倉大明神。例祭は四月五日にして、このほとりの産沙とす。毎年四月二日に猿楽あり。京六条巽氏よりこれを勤む。」

割拝殿

舞楽殿

Sample

本殿拝所。onmouse-本殿覆屋up

     

乙訓郡・石井いわい神社 1月9日

西京区石作町最奥集落の傍の尾根上に坐す。昭和28年まですぐ上の金蔵寺境内に祀られていたが氏子の要望によりここに遷座したという。参道はおろか境内にも社名表示は皆無。玄松子さんのサイトの案内がなければまず登る気にはならなかったし登れなかっただろう。記して謝。

境内にはこの社殿ともう一つ小さい祠があるのみ。

八幡宮やはたぐう社(式内石作いしつくり神社の旧鎮座地と伝える) 1月9日

拝殿を伴った社殿。この真下に古墳がある(つまり古墳の上にお社が鎮座する)。古墳と八幡さんの結びつきを筆者はかねて唱えているところだがここもそうだった。

石作町の鎮守と言って差し支えない場所。ここに式内社である石作神社があったのが当然と思う。

乙訓郡・大歳おおとし神社(乙訓郡・式内石作神社を合祀) 1月9日

大歳神社自体が式内社であるうえに、上記の石作神社を合祀したという。社叢は栢杜かやのもりと美称されてきた見事なもの。都名所圖會にいう。 栢社(かやのやしろ) は灰方の南、林の中にあり。祭るところは大歳神にして、向日社の地主神の御母なり。例祭は九月二十一日。拝殿において能あり。このところの産沙とす。」

舞楽殿(拝殿)

本殿

乙訓郡・入野いりの神社 1月9日

拝所

本殿祠。「入野社」の掲額。

在所の外れにあり、通り道からは民家の陰に隠れて見えない。風の通り抜けのよさそうな境内だ。でもこの佇まいにもかかわらず、営々と命脈を保ってきた所以はどこにあるのだろう。因みに当社も含めて今日の上記4社すべてにこういう看板があった。「お宮詣り・地鎮祭等について/ご希望の方は直接宮司までお電話又はFAXでお申込み下さい。尚、お宮詣りは**神社、長岡天満宮のどちらでもご希望の神社でさせて頂きます。/**神社/長岡天満宮宮司 某」 神官無住で長岡天満宮の管轄下にあるということか。

角宮すみのみや神社(乙訓郡・式内大雷おおいかつち神社の論社) 1月9日

乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちのかみやしろ)に擬せられるお社。在所西の宮山に坐した社殿は承久の乱で灰燼に帰し、17世紀末に現在の地に再建されたという。

舞楽殿

拝殿

本殿。左に主祭神の火雷神(ほのいかづちのかみ)ほか三神を併祀、右に春日三神を祀るという。都名所圖會に 乙訓社(おとくんのやしろ) は井内にあり。春日四所の明神を祭れるなり。この里の氏神とす。祭りは四月辰の日なり。」とあるのは蓋しこれか。

向日むこう神社(乙訓郡・式内むかふ神社) 1月9日

西国街道に面した正面鳥居。二の鳥居へ登る参道は実に200m。この広壮さは只者ではない。
 都名所圖會にいう。向日明神(むこうのみょうじん) は久世の坤のかたなり。祭るところ一座にして、鸕鷀羽葺不合尊なり(深き神秘ありとぞ)。このところの氏神とす。例祭は四月中辰の日なり。地主の神は本殿の南にありて白日明神と号す。素盞嗚の孫大歳の神の御子なり。白山権現と同体とす。『延喜式』「神名帳」・『三代實録』等に記すはこの地主の神なり。石座の神降臨の地は鳥居の内、道の半ばにあり。世に成合塚と称するは非なり。(後略)」

舞楽殿

拝殿

背後からみた本殿覆屋。デカ過ぎてまともな写真が撮れなかった。