2014年 お社巡り  − その3 −

  

綾戸國中あやとくなか神社(乙訓郡・國中神社。茨田神社、大井神社の論社) 7月4日

社頭の鳥居。この社叢のすぐ向こうに新幹線の高架が通っている。そのため昭和40年に社殿を移築したという。

本殿。都名所圖會に曰う 綾戸社(あやとのやしろ) は蔵王堂(注:上久世)の南にあり。牛頭天皇を祭れるなり。例祭は四月十九日なり。六月祇園会祭礼に、馬の頭を首にかけて、児の騎馬にて当社より毎歳出づるなり。」

12脚の素通し拝殿。 同社サイトによれば 「昔は綾戸宮と國中宮の2社であったが現在では合祀され、左に綾戸宮が、右に國中宮が鎮座されている。社伝によれば、第26代継体天皇の御代には大堰川七瀬の祓神として大井社と称し第62代村上天皇天暦9年綾戸社に改称され、社号の額は第70代後冷泉帝の御筆と伝えられている。また國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があって中世には牛頭天皇社とも呼ばれていた。古くには久世郷全体の郷社であったと推定される。戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったのである」 という。

菱妻ひしづま神社(久世築山町) 7月4日

社頭の掲示によれば、「天津彦火瓊瓊杵尊をご祭神とする当社は9世紀中頃には存立し延喜式神名帳に記載の簀原大明神が前身とされている(中略)古文書によれば12世紀はじめ簀原の地に建立された火止津目ひしづめ大明神が桂川の大洪水で流失し下流の久我の地に再建された(編者注:後記の久我石原坐のお社のこと) 当社は流失の跡地に簀原大明神を奉じて鎮座したものと思われる。13世紀頃社名を乙訓坐火雷神社に 16世紀頃菱妻神社に変更したと思われる(後略)」
 ↑これは二の鳥居、向こうに一の鳥居が見える。

舞台様拝殿(新しい!)と社殿。でもこれ以外何もない。社叢のそとは企業団地。

覆殿に蔽われた本殿。

菱妻ひしづま神社(久我石原町:乙訓郡・走田神社、茨田神社、簀原神社の論社) 7月4日

社頭の大鳥居。

拝殿(割拝殿)

本殿。 久世築山に坐すお社の説明で同社は 「天津彦火瓊瓊杵尊をご祭神とする」 とあるが、当社の祭神は同社サイトでは 「奈良の春日大社から天児屋根命を勧請」 とあり、同じ起源をもつと伝え、社名も同じなのに何故、という疑問が残る。

久我くが神社(乙訓郡・久何神社) 7月4日

社頭の大鳥居。久何神社 久我神社(こがのじんじゃ) 上久我にあり。菱妻明神と号す。土人生土神とす。例祭四月巳日。(後略)」【都名所圖會】 「久何くが」は延喜式の表記。この圖會の記述では菱妻社と混同している。

拝殿(割拝殿)

本殿

乙訓郡・神川かみかわ神社 7月4日

拝殿。本殿とかなり離れているが再建のせいか?

鉄筋コンクリート造で再建された本殿

Sample

社頭の鳥居。扁額には「住吉大明神」とある。onmouse-up 摂津の住吉社の御神霊を勧請して「神川座住吉神社と称した」と伝える。当社も【圖會】に記載が見当たらない。

乙訓郡・羽束師坐高御産日はづかしにますたかみむすび神社 7月4日

羽束師神社(略称)の社頭大鳥居は住吉っさんと同じ角柱鳥居。拝殿の前は大茅の輪。そうか、6月末日の茅の輪くぐりに僅か遅れたか。今日参詣したお社のうち一番活気の見られたお社だが、なぜか【圖會】に記載がない。

拝殿(割拝殿)は提灯の献灯で埋め尽くされている。

本殿

乙訓郡・神足こうたり神社 7月4日

縁あって神足駅(旧称)の時代何度もこの近くに足を運んだが一度も足を踏み入れたことがなかった。これは拝殿。

本殿

社頭の大鳥居。比較的新しい。【都名所圖會】には 神足(こうだに)社 開田の南にあり。祭神未考。額「神足社」(竪額)。この神社『延喜式』に載せたり。また『文徳實録』曰く、「斉衡元年冬十月戊辰、山城国神足神をもって官社に列す」云々。」 と記されている。旧くは「こうだに」と呼ばれていたらしい。

     

大鳥郡・大鳥大社おおとりたいしゃ 6月14日

西正面鳥居。6月中旬の正午前というと太陽はほぼ真上。鳥居は貫が貫通しない“中山鳥居”。

本殿。当社の大鳥造形式は妻入りの出雲大社の流れをくみ、住吉造への移行形式だと云う。

大鳥造形式による拝殿。大鳥大明神社(おほとりたいみやうじんのやしろ) 大鳥村にあり。〔延喜式神名帳〕曰、名神大月次新嘗。和泉国一ノ宮と賞す。例祭、八月十三日。祭神日本武尊。【和泉名所圖會】」
 当社は和泉国一ノ宮と称される。正式名は「大鳥神社」ということだが社頭の社名標柱の表示を優先した。

主祭神・日本武尊像

社殿正面は南面する。正面鳥居は西向きだが、この南向きが古来のものに相違ない。

大鳥郡・大鳥美波比おおとりみはひ神社(式内・押別おしわけ神社を合祀) 6月14日

大鳥大社の摂社・大鳥美波比神社正面。西面する。参道を進むと真っ先にこのお社が見えるので一瞬カン違いする。なお当社に合祀と伝える押別神社についてはもとより、周辺には当社についての何の説明表示もなかった。なお当社は式内社。

拝殿。本殿ともに形式は大鳥造ではない。大鳥五社の一なのだが。

本殿

     

大鳥郡・多治速比賣たじはやひめ神社(左殿に坂上さかのうえ神社、右殿に鴨田かもた神社を併祀) 5月28日

西面する多治速比賣神社一の鳥居。

石段の参道を上がったところに二の鳥居があり、駐車場をへてここ三の鳥居。正面に社殿。

拝殿。

本殿。三間社入母屋造で国の重要文化財という。この左右に併祀された坂上・鴨田の両神社の祠がある筈だが、これ以上は見えなかった。

拝殿前の碑に併祀社を含む式内社3社が表示されている。これには「多治速比賣命神社」と「命」が付いていた。【和泉名所圖會】には以下の記述のみ 鴨田神社(かもたのじんじゃ) 太平寺村にあり。延喜式内也。今、住吉と称す。産沙神と仰く。」

大鳥郡・陶荒田すえあらた神社(大鳥郡・火雷ほのいかづち神社を合祀) 5月28日

Sample

陶荒田神社社頭。ここの鳥居はなぜか背が高い。200m南方の上之うえのバス停前にある鳥居も背が高い。(ゲタ履いているからか)

拝殿から窺った本殿。

神社拝殿。陶荒田神社(すゑあらたのしんじゃ) 大村にあり。又、上ノ村ともいふ。延喜式内也。今、天神と称す。生土神とす。荒田の直祖神、高魂命、劔根命、二座を祭る。神宮寺を、今、増福寺といふ。いにしへは大村寺と称ず。【和泉名所圖會】」。 このお社の社叢を太田の森と云い、下記との関連がでてくる。それにしてもこのお社には、明治の末に合祀されたという火雷神社の影も形も無かったなァ。

摂社のうち、大田田根子(大和・三輪の神にまつわる伝承をもつ)を祀るお社「太田社」。

愛宕あたご神社(火雷ほのいかづち神社の故社地) 5月28日

このお社の現在の呼称は「愛宕神社」である。大鳥郡に坐すと神名帳に記された「式内・火雷神社」との歴史的な関わり・来歴はあるものの、標柱に記された「式内 愛宕神社」は正しくない。何の雰囲気もなく、東北東に向いた社殿は正面鳥居にそっぽを向いている感じ。

Sample

拝殿。onmouse-「火ノ雷大神」up

塀越しに見た本殿。銅葺きか。

     

備中国賀夜郡・吉備津きびつ神社 5月20日

吉備津神社社頭。吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する。

急な石段の上の拝殿(国宝)には「吉備津宮」の扁額と「平賊安民」の額が掲げられている。

国宝の本殿。俗に吉備津造、正式には比翼入母屋造という独特の様式で建てられた本殿。延喜式神名帳所載の格式あるお社(名神大社)で備中一ノ宮と称される。祭神・大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子。神社背後の中山頂上にはその墓と伝える中山茶臼山古墳(墳丘長120mの前方後円墳)がある。

大和国添下郡・菅原すがはら神社(現・菅原天満宮) 5月17日

社頭鳥居。当社は2002年に旧称菅原神社から菅原天満宮に改称したという 延喜式内社である。菅原氏(元は土師氏)の祖・天穂日命、野見宿禰と菅原道真を祀る。菅原神社(すがはらのじんじゃ) 菅原村にあり。〔神名帳〕添下郡菅原神社と書けり。聖廟にはあらずとなん。或説に見えたり。【大和名所圖會】」

拝殿

本殿

八所御霊はっしょごりょう神社 5月17日

(当社は式内社ではない。念の為) 秋篠寺の南門前西側に東向に坐す八所御霊神社。もとは単に御霊神社と云った由。祭神が崇道天皇や伊予親王、橘逸勢、藤原広嗣など無実の罪で失脚て死んだとされる人々を祀る鎮魂のお社。

拝殿。箒目のついた境内は美しく森厳。

本殿。3間社流造で目を惹く。

大和国添下郡・添御縣坐そうのみあがたにいます神社(歌姫町) 5月17日

添御縣坐神社社頭。式内社で三碓みつがらす町鎮座のもう1社とともに同社論社の一。

全体的に規模が小さく素朴だが参道の灯籠だけはすごい。

拝殿。歌姫越えの街道のいわば塞の神的存在だったか。境内にいくつかある歌碑がそれを物語る。♪このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに♪ 菅家

拝殿から窺った本殿

♪佐保過ぎて寧楽の手向に置く幣は 妹を目離れず相見しめとそ♪ 長屋王