相楽神社から綺原神社へ  2015年10月19日

♣ 独 行“山城の式内社巡り11回目” ♣

このタイトルを「ソウラクジンジャからキハラジンジャへ」と読んではいけない。では・・・読み方は下記をご熟読ありたい。

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10時44分JR学研都市線西木津駅に降り立つ。単線ホームの端にドーム状で素通しの“駅舎”があった。

駅から300m。遠目にもそれと知れるケヤキの大木(ご神木)が呼んでいる。

今日のターゲット@相楽(さがらか・社頭表示板ではサガナカ)神社。

少し戻るとこの道標(読めない)があって、そこから左へ旧街道っぽい道を一路北へ。

吐師(はぜ)集落を出外れると一面の田圃。大半は稲刈りが終っていた。お地蔵さんにご挨拶。

柿をみると訳もなく食欲がわく。うまそ〜。

堀池川畔。「嵐山・渡月橋まで41.6km/堀池橋(堀池川) 京都八幡木津自転車道線」

堀池川の堤防。川をトンネルで潜っても不思議ではなさそうな地形だ。

馬渕集落のはずれでいったん木津川堤防に上がり、左へ下りてゆく。

「崇神帝十年役武垣安彦破斬旧跡」古事記崇神天皇の条に見える建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反逆を記した碑。

【一言多い注釈】古事記抜粋“(崇神)天皇答へて詔りたまひしく「こはおもふに、山代國に在る我が庶兄まませ建波邇安王、きたなき心を起せししるしにこそあらめ。伯父、いくさを興して行でますべし。」(中略)ここに山代の和訶羅わから河に到りし時、その建波邇安王、軍を興して待ち遮り、各河を中に挟みて、むかひ立ちて相挑みき。(中略)ここに國夫玖命のはなてる矢は、すなはち建波邇安王を射て死にき。(中略)またその軍士いくさびとを斬りはふりき。故、其地をなづけて波布理曾能はふりそのと謂ふ。”【注釈の注釈】@和訶羅河は木津川の旧名 A波布理曾能が「祝園(ほうその)」に転訛したと伝えられる。

そんなこんなの歴史を秘めた祝園神社到着。今日のターゲットA

そんなこんな歴史があるものの、江戸時代は春日社であったことが社頭の灯籠から読み取れる。

祝園神社の社叢は古くは「柞の森(ははそのもり)と呼ばれた。右向こうに府道71号線が見える。

木津川に架かる71号線の橋・開橋(ひらきばし)の側道橋。約500mある。

開橋の中ほどから木津川上流を南望。遠く平城山越しに見えるのは若草山あたりか。

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橋を渡って1km余でJR奈良線棚倉駅北の踏切。遠く不動川トンネル?が見える(かな)。

駅裏に大きい社号碑。今日の第Bターゲット・湧出宮(わきでのみや)こと和伎坐天之夫支売神社(わきにますあめのふきめじんじゃ)

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300mばかり北に不動川という川が流れるが、JRはこれをトンネルでくぐっている。

在所との比高差は凡そ10m。河道を掘り込んで下げるより、トンネルを掘るのがベターとの判断があったのだろう。ここは北の踏切。

不動川の堤防を降りて山沿いに1km余歩くと蟹満寺(かにまんじ)。ここは真言宗智山派のお寺。蛇入婿−蟹報恩縁起で有名。乃公歩いたコースだけで道標を10以上見かけた。

蟹満寺のすぐそばに坐すのが今日の最終ターゲット・綺原(かんばら)神社こと綺原坐健伊那大比賣(かむはらにますたけいなだひめ)神社。

綺原神社の背後が今日2本目の天井川・天神川。

天神川からさらに800m北上すると、この渋川も天井川。

井手町に入り、久しぶりに?商店街を歩くこと1km。

木津川右岸の天井川で今日“登る”のはこれで4つ目。かの「井手(井堤とも)の玉川」

玉川堤は来たことがある。2002年というから13年前。カルチャーの「万葉を歩く」だった。

「井堤茶蘼故址」の碑。右側には ♪駒とめて猶水かはんや山吹の花の露そう井での玉川♪ 俊成 とあった。(新古今和歌集159)

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井堤を下りてもう一つの“陸橋”から望む“玉川トンネル”。ちょうど電車が走り抜けていった。

ということでJR奈良線玉水駅発14時12分京都行き快速の人となる。

結局いつものデンでルヒシメ抜き。茨木でソバにありつくまで何もなし。だって今日の11kmコースの途中には食堂どころかコンビニの1軒すら無かったンだもん。けどこの快適さは何なんだろうね。

今日の総歩数 17,939 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら