2014年 お社巡り  − その1 −

  

信太森しのだのもり葛葉くずは稲荷神社 2月12日

正面鳥居。これはよくある“赤”鳥居ではなく普通の石造である。

社殿。因みに当社は式内社ではない。

和泉名所圖會に曰く 「信太杜(しのだのもり) 信太郷中村の荘領森田氏の宅地にあり。信太社(現・聖神社のこと:編者注)より十町許西也。いにしへは、森の封境広大なり。今は、農家建ならびて、かの居地に方廿間許なる森ありて、草木繁茂し、尋常の叢林なり。稲荷祠あり。奥に白狐祠あり。林中に狐穴多し。(後略)」

和泉郡・舊府ふるふ神社 2月12日

拝殿。この地は信太稲荷の飛地で境内末社だそうな。1000年前に延喜式神名帳に載る格をもっていたお社でもいろいろあるのだ。

本殿(覆屋)。当社は和泉名所圖會に記載が見当たらない。

和泉郡・ひじり神社 2月12日

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700mがとこ西方に建つ大鳥居と「式内聖神社」の標柱。神社は南面するが、和泉名所圖會を見る限り こちらが参道だったようだ。onmouse-圖會up

南面する拝殿。広大な境内の中 この素朴な拝殿と後ろに見える本殿を中心にいろんなお社が軒を連ねる。(こちら参照)

きらびやかな彩色の残る本殿は国の重文。「和泉名所圖會」の時代では「聖神社」の名は隠れ、以下に示すようなことだったらしい。信太大明神(しのだだいみゃうじん) 信太郷信太山にあり。〔延喜式神名帳〕曰、聖神社。例祭、八月十五日。信太郷中土生神とす。社僧万松院。祭神、聖神 神系素盞烏尊のみ孫、大歳の神の御子なり。(後略)」 この「信太大明神」は今のお稲荷さんのことではなく「信太郷に坐す大明神」の意らしい。

本殿。当社は和泉国三の宮だという。

南向きのお社にとってこれが正面鳥居なのだが。

和泉郡・丸笠まるがさ神社 2月12日

丸笠神社はいま伯太神社管轄で祭祀は行われていないという。左は故社地という丸笠山古墳への入口鳥居。右は丸笠山古墳。鳥居脇の表示にこう記す。「(丸笠山古墳は)もと式内社丸笠神社の境内地で、前方部に拝所を設け、本殿を設けず直接古墳を祭る、古代の祭祀形式をとっていたと考えられる。/和泉市

丸笠古墳小祠

そして上記右写真向かって右手の叢林の中にこの鳥居が建ち、左手にこの壊れかかった小祠【onmouse-up】がある。しかしこの小祠が丸笠神社とは考え難い。だいいちこの周辺に「丸笠神社」の文字を記した標識が一切無い。 なぜ乃公がこの地に到ることが出来たかといえば 一にかかって玄松子さんのサイトのおかげである。記して感謝。

和泉郡・伯太はかた神社 2月12日

正面鳥居。真向いに龍雲寺という無住の寺院がある。(関係無いか)

拝殿。このお社はよく見かけるスタイルで、ある意味“懐かしさ?”を感じた。

伯太神社本殿。和泉名所圖會によれば、博多神社(はかたのじんじゃ) 伯太村にあり。延喜式内也。今、天神と称ず。」

和泉郡・曽禰そね神社 2月12日

曽禰神社一の鳥居。西北に正面する。曽根神社(そねのじんじゃ) 曽禰村にあり。延喜式内也。祭神、曽禰氏の祖神、饒速日命なり。今、天神と称す。後に、住吉、祇園を併せ祭る。」【和泉名所圖會】

上の写真、突き当りを右折して二の鳥居をくぐると拝殿。つまり社殿は東北を向く。比較的珍しい。

本殿。社叢が濃くてうまく撮れるポイントが無かった。

和泉郡・いずみ穴師あなし神社 2月12日

和泉国二の宮といわれる泉穴師神社。正面鳥居のすぐ内側にある石の反橋が荘重感を与える。

拝殿。珍しく鳥居が二基。式内社で「泉穴師神社二座」となっているからか。

鬱蒼たる社叢に囲まれた泉穴師神社社殿。「穴師(あなし)大明神 吾孫子荘宮村にあり。〔延喜式〕には、泉穴師神社と書す。穴師は戌亥の風也。又、大和国に穴師兵主神社あり。故に泉穴師と云。祭神 天忍穂耳尊、栲幡千千姫命の二座なり。右に、天照太神、住吉明神を祭る。例祭、八月十五日。我孫子七村の氏神なり。(後略)」【和泉名所圖會】

本殿。

参道200m余先・穴師小学校脇に建つ一の鳥居。

和泉郡・あわ神社旧社地 2月12日

粟神社は明治末期に大津神社に統合された。辛うじて故社地(ヨシミツ毛織会社隅)に碑が残る。「粟神社(あはのじんしゃ) 宇多大津にあり。延喜式内也。今、粟堂といふ。【和泉名所圖會】」  現地探求は困難を極めたが “戸原さんのサイト”のおかげで到達できた。記して感謝。

大津おおつ神社(式内粟神社を合祀) 2月12日

乃公「泉大津神社」と思っていたが、写真の通り正式名は「大津神社」だった。これは正面鳥居。当社は式内社ではないが、前述「粟神社」を統合合祀したとされているので、“母屋さん”もしくは“寄宿先”として載せる。南海泉大津駅傍に坐し、存在感あるお社。

拝殿。左側に見えるピンク物体は「厄除け桃方位盤」といわれるもの。

本殿。当社も和泉名所圖會に記載がない。

     

野洲郡・己爾乃こじの神社(列系図・若しくは開発) 2月1日

己爾乃神社社頭の鳥居。ここ洲本町1607に坐すお社は「列系図れっけつ」若しくは「開発」という“冠詞”をつけて呼ばれるという。(近くに列系図橋というのがあった)。野洲川旧流路に沿っており、社殿は東南に正面を向ける。

拝殿。京都や滋賀のお社によく見られるが、拝殿と言ってもここで“拝む”訳ではなさそう。

拝所(ここが拝む場所)。これに連なる塀が本殿を囲んで1セクションを作っている。

本殿。

社頭の社号標柱。この類は殆んど角柱もしくは自然石なのだが円柱は非常に珍しい。ネット上で「古い鳥居の再利用か」と記しているのを見かけた。

野洲郡・己爾乃こじの神社(中の前・若しくは大曲) 2月1日

社頭の鳥居。

拝殿。

本殿。上記 列系図さんから野洲川旧流路沿い西約500m・洲本町2322に坐すこのお社の“冠詞”は「中の前」もしくは「大曲」。延喜式神名帳に「己尓乃神社二座」はこの二社のことだろう(とネット上にあった)。

野洲郡・下新川しもにいかわ神社 2月1日

社頭風景。乃公の好きな佇まい。鳥居を抜けて参道を進み左へ折れると社殿が並ぶ。つまり鳥居は南西向きで社殿は南東向き。この中洲集落には寺院が3つ、神社がもう1つ。野洲川三角州中の「中洲」で古くから人が住み着いたのだろう。

Sample

社頭鳥居。このお社は毎年5月、鮒の「すし切り祭り」で有名なんだそうな。

他社に倣うと拝殿だが、吹き抜けの柱が意外に豪壮で存在感のある建物。裏手(つまり本殿側)に「正一位新河大明神」の扁額があった。
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Sample

拝所。神社のお使いがオシドリだそうで、この拝所の階段向かって右側に番いの鴛鴦の像がある。(写し損ねたので画面 onmouse-up でご覧下さい。

本殿。

野洲郡・比利多ひりた神社 2月1日

二之宮神社というお社の中に堂々と坐す。後述の淺殿神社所在の「比留田」郷に坐したのが、神威荒々しく12世紀にこの地に移し祀ったという伝承がある。やはり後述淺殿神社が「式内・比利多神社」であり、当社は名前こそ残れ「式内・比利多神社」の「荒御魂社」だったのでは、という見解を見かけた。言葉を変えると『比利多神社の論社の一つ』。因みにここは西河原。

拝所。当社は“母屋”の二之宮神社に対し直角方向を向く。つまり東南面する。

本殿。これ以外何もない。説明板すらない。

二之宮神社 2月1日

例により“店子”の比利多神社を記したので“母屋”二之宮神社を飛ばすわけにゆかない。当社は後述の兵主神社の境外末社(式内社ではない)。特に当神社境内は平安時代の庭園跡が出土するという特異な存在が知られており、野洲市の「親水公園」。

拝殿。当社は西南に正面を向けるが、在所の道路などと微妙な差がある。

本殿。

野洲郡・淺殿あさどの神社 2月1日

淺殿神社正面鳥居。比留田の町なかに南東に正面を向けて坐す。ちょうど工事か清掃かで数人の人が忙しく立ち働いていて(拝殿の前の小型トラックがその証拠)、視線が結構きつく感じられて写真も満足に撮れず、参拝しただけで早々に退散した。式内・比利多神社の論社の一だが、名前はともかく、こちらが本当の「式内比利多神社」という論考が多いみたい。

拝所を左右から撮ったが、ロクに拝観の余裕すらなかった。ノミの心臓ゆえ(涙)。でも地域の方から非常に崇敬され、大事にされている様がありありと窺えた。今日訪れた数社のうちでこの点ではピカイチ。

野洲郡・兵主ひょうず大社 2月1日

野洲市五条に坐す兵主大社の社頭。遠目にもそれと知れる広大な社叢に向かって伸びる参道。両側には例大祭時にそれぞれの神輿・太鼓が置かれるのだろう、摂社・末社の碑が並び壮観。

参道を約300m進んでやっと左折すると朱塗りの二の鳥居。
>>下新川神社も同じだったが、参道を左折して拝殿・本殿に向かうお社が案外存在する。なぜだろう。右折して、という“逆タイプ”は寡聞にしてお目にかかったことがない。

そして迎えてくれるのが滋賀県県指定有形文化財の楼門。兵主二十一社のうち上七社(左から「矢取神社、浅殿神社、二ノ宮神社」「正一位勲八等兵主大神宮」「戸津神社、狩上神社、矢放神社」)の扁額が掛かる。
ㅤもっと余裕があったら近辺の兵主二十一社を訪れることが出来たのに。(前を通りかかったり、遠望したりという数社はこちらで触れています)

兵主大社拝殿。

同じく本殿。

     

和泉郡・淡路あわじ神社 1月24日

拝殿

本殿

社頭の鳥居。当社は西面(厳密には西北西)する。【和泉名所圖會】に記載なし

菅原すがわら神社 1月24日

社頭風景。ここはみごとに外れた。迷って岡山町の街中で「菅原神社は?」と尋ねたら実に詳しく丁寧に教えてくれたのがここ円満寺のそばの菅原神社。帰宅後1時間有余を閲して判明したのが、方角的に“真逆”の別のお社を教わったのだということだった。それだけ「菅原神社」が多いということか。
ㅤGoogle Map でもある拡大率までは菅原神社でそれを超えると穂椋神社に表示が変わる。どうやら乃公はこれで間違えたらしい。早い話(決して早くないが)神社本庁のリストでも菅原神社通称穂椋神社と記載している。これが間違いのもと。(因みに当社は式内社ではない)正しい方を再度探さずばなるまいて。

拝殿

本殿

和泉郡・兵主ひょうず神社 1月24日

拝殿

本殿。国の重文。

社頭風景。当社は正面を南東方向に向けて坐す。それにしても広い立派な境内。【和泉名所圖會】に記載なし

和泉郡・夜疑やぎ神社 1月24日

夜疑神社一の鳥居。拝殿までの参道はほぼ100m。社名がやや異様に思えたので神職の方に問うたところ、「ヤギ」と明快な答えが返ってきた。万葉仮名時代の命名で、氏族・地名とも近世では「八木」だ、と。【和泉名所圖會】に記載なし

拝殿。崇敬者の多さをこの建物で知る。

本殿

     

和泉郡・男乃宇刀おのうと神社 1月13日

和泉名所圖會に曰く、「男乃宇刀神社(おのうとのじんじゃ)二座 一座は横山荘仏並村、一座は同荘下ノ宮村にあり。仏並村の祭神は彦五瀬命也。文禄年中に、牛頭天王を勧請して、今、本社の如し。下宮村の祭神は神武天皇也。又、日根郡男里に同神あり。何れも、延喜式内也。」 ああ、そういえばさっき「下ノ宮」というバス停があったな、とはこれを引き写した段階での反省。後悔先に立たず。それはともかく、ここは神社社頭。威風堂々あたりを払う感あり。旧道と新しいバス道がここで接する。

拝殿。この神社の向かって左に「大日山佛並寺」がある。佛並寺があったので、在所も仏並村となったのか、その逆か?ちなみに 常願寺という寺が境内に明治維新まであったと伝わるため、この寺は神宮寺ではない。

本殿。

泉南郡・穂椋ほぐら神社 1月13日

和泉名所圖會によれば、穂椋神社(ほくらじんじゃ) 小倉村にあり。延喜式内なり。今、天神と称す。」 とあるのだが、今や(池田)春日神社に合祀されて、同社本殿脇に意賀美神社と並んでささやかに鎮座する。和泉市内にはもう一ヵ所菅原神社として穂椋神社があるがそれはまた次の話。「ほくら(保久良)」神社は六甲山系にもあるが社名由来は異なるのでは?という。ちなみに「ほぐら」の読みは神社本庁のデータベースによる。

池田 春日神社 1月13日

まずお断り。この神社は式内社ではない。しかし、式内穂椋神社を合祀、つまり式内社の今や家主さんであり、近郷の鎮守社で社叢の見事さと相まって掲載した。「池田」は正式名称ではないが「春日社」が多いことから区別のために“半公称”的につけたものか。それにしてもこの社頭の森厳さはどうだ。

みごとな参道を抜けてたどり着く拝殿。大きな注連縄が目を引く。

本殿。

泉南郡・楠本神社 1月13日

【社頭の社名標石】 前述の春日神社からここへ直行しようという企てがもろに崩れ、というより経路を取り違えたというべきか。阪和道路の土盛りやカトリックの修道院に行く手を阻まれ、ようやくたどり着いた牛滝川の手前で右折(橋を渡りゃ何てことなかった)して彷徨がはじまった。

【本殿】 包近(かねちか)北から山直(やまだい)図書館まで、そして左手に見える社叢を目がけて橋を渡ると、住宅街との際にある児童公園からは入れない。仕方ないので上方の溜池から丘の上の墓地へ登って竹林の中を左折し、下ると果樹園。

【鳥居から右直角に拝殿と本殿】 和泉名所圖會にいう、楠本神社(くすもとのじんじゃ) 包近村にあり。延喜式内なり。今、天神と称す。 果樹園の中を通ってようやく参道(450mになんなんとする)に入ったら上記社頭の標石が見えてきた。これで彷徨終了。 あと菅原(穂椋)神社と淡路神社を予定していたが、気力喪失。後で計ったらこの神社を外周するには山道を含めて2kmがとこ歩く必要があり、入り口(参道)は厳密に1ヵ所。抜け道は一切、無い。