G34West吉備路を走る 2014年5月20日

タイトルはJR西日本のキャッチコピーではなく、同志社グリークラブを昭和34年に卒業した者の関西在住者の集団が吉備路にバス旅行したという、ただそれだけのことなのだが。

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われわれはこの日一日「関西城郭研究会」会員であった(らしい)。onmouse-up

備中国一ノ宮と云われる吉備津神社社頭。立派な松並木の参道の奥にある。

拝殿正面には大きな「吉備津宮」の扁額。

「吉備津つくり」と呼ばれる本殿右側面(右端に拝殿が連なる)。すべて国宝。15世紀初頭の建築。

参加メンバーひとしく感嘆の声をあげた社殿の全景。この角度がベストショット。高森城郭相は八面六臂の大活躍中だが・・・。

総延長約400mの回廊。戦国時代(16世紀後半)の建立という。長谷寺を思い出した。

御釜殿(17世紀初頭の建築:重文)内の模様。正面のお釜で行われる「鳴釜神事」も国の重要文化財。左正面の張り紙が光ってよく読めなかった。御免。

次はかの「水攻め」で有名な備中高松城址。城址は今、本丸址公園になっている。

城主清水宗治の首塚と辞世の句碑(向う)「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

黄菖蒲。某ウェブサイトでは「高松城跡には今、菖蒲・あやめ・カキツバタ類を植えてある」そして写真付きで「黄菖蒲」とあったのでそれに従った。お恥ずかしながら乃公区別がつかない。

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国民宿舎サンロード吉備路で昼食。

庭園内の池にタンチョウヅルが2羽。1羽はかすかに頭だけ覗かせている。onmouse-up

そして岡山県下唯一の五重塔・備中国分寺を訪う。その佇まいは今日のメンバー異口同音に「素晴らしい」。

奈良時代に創建された当初は七重の塔(50m)であったが南北朝時代に焼失し、江戸時代に五重塔として再建されたという。この上層から下層まで屋根の大きさが変わらないのは江戸時代の特徴だそうな。国の重要文化財に指定されている。。。塔下の赤帽子の一群は小学生の校外学習か。

国分寺は花の寺。

花が3人加わった。

いよいよ本日のメインイヴェント・高森さんの故郷高梁市に向かう。お目当ては当然日本最高所の天守のある備中松山城。途中とうとう雨が降り出した。このため登城・下城に時間を喰い、武家屋敷群を訪ねるプランを割愛せざるを得なくなったのが返す返すも残念だった。

臥牛山中腹(360m)でバスを降り、あとは二本足と1本杖を駆使してそぼ降る雨の中を登城することになる。

途中にはこのような城主の「お声掛け立札」林立「登城心得/この先足もと悪しきにつき気をつけて歩むべし/城主」このほか「よくぞまいられた」「本日の登城大儀であった」エトセトラ etc.

こんな山の上に見事な石垣。

二の丸入口の与謝野寛の歌碑♪松山の 渓を理むる あさ霧に わが立つ城の 四方しろくなる/寛♪

二の丸から五の櫓越しに天守を望む。立てるはMTくん。

備中松山城天守。二層だが左側から見ると三層に見える。この位置が臥牛山の南峰にあたり標高約430m。(以下Wikipediaより引用) 城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されている。現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。

天守内の展示でこんなものを見つけた。「新島襄は上州安中藩の江戸藩邸で生まれた。当時の安中藩の藩主は板倉勝明、安中藩板倉家は備中松山藩板倉家の分家にあたる」「アメリカから帰国後 伝道のため高梁を訪れた」云々。

珍しく天守に囲炉裏がある。この山上では冬場は大変だったのだろう。

天守の縦連子窓から覗いた本丸・二の丸。遠く霞むは彦根城ならぬ高梁市街。

天守の後ろにひっそりと二重櫓。

かくして下城し、高梁市街はマイクロの車中から見物。

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まるでお城のような構え・天柱山 安国頼久らいきゅう禅寺。

日本基督教団高梁教会(県史跡) onmouse→車中からうまく撮れなかったのでネットから借用・謝々

以上で今日の予定終了。高森さん、大変だったろうにいろいろアリガトサンでした。往路を取って返し、19時半三宮帰着。昔のお姉さんも交え、IK、TE、OY各兄のために Happy Birthday を歌って乾杯。これで打ち上げ。盛り沢山の一日に感謝。

今日の総歩数 松山城以降 8,036 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら