猪名川のこっちとそっち  2010年5月15日

♣ 独行“北摂の式内社を訪ねて−3−” ♣

昼食中に急に思いついて、池田へ向かった。グランドパスフル活用で、山体前→千里中央→箕面、そこでハタと困ったが、歩いて新稲、東畑。東畑からまたバスで五月山公園・大広寺前。そこからは歩いて下記。

穴織宮あやはぐう伊居太いけだ神社本殿。五月山公園の中腹、というより山が猪名川に切れ落ちる微高地に鎮座する。織物を中国・呉の国から伝えたという伝説の呉織くれはとり穴織あやはとりの後者にちなむ式内社。穴織神社(あやはのじんじゃ) 同所(池田の町:編者注)北の入口にあり。生土神とす。例祭九月十七日。こゝにも社内に猪名津彦の神籬あり。末社五前・観音堂あり。/或記に曰く、此社は本號伊居多神社なり。〔延喜式〕神名帳には河邊郡に載せたり。則いにしへは河邊郡小坂田村にあり。原池田は呉織里といふより呉織祠あり。中古本社伊居多神社を小坂田よりこゝにうつし建て、里の名を改めて伊居多とし、後に池田と文字を亦改む。社號の伊居多も呉織にならびて穴織といふ。旧蹤小坂田を今神幸の御旅所とす。これ池田荘繁華なるゆゑなり。此由縁南郷春日の社記又西成郡加島の神祠の旧書軸を観て、詳にこれを知るべしと云々。(攝津名所圖會)

伊居太神社一の鳥居

一の鳥居の扁額「穴織大明神

境内社・爲那都比古いなつひこ大明神

伊居太神社二の鳥居の扁額「伊居太神社

鹽増山大廣寺えんぞうざんだいこうじ(曹洞宗)。左は本堂右は山門。池田城主・池田氏の菩提寺でもあるという。
寄るつもりはなかったのだが、バス停名が「五月丘公園・大広寺前」で寺名に記憶を呼び覚まされて寄ってみた。何あろう、乃公現役時代お世話になった社長さんの菩提寺でもあったのだ。初めて墓前に額づいてかつての日々を偲んだことであった。鹽増山大廣禅寺(えんぞうざんだいくわうぜんじ) 五月山の半腹にあり。禅宗曹洞。/釋迦佛 客殿に安ず。脇士文殊・普賢。開基天巌禅師、本願は應永年中池田筑後守藤原光正の草創なり。此人の法號を大廣寺玉堂金公禅定門といふ。文明十四年十月二十四日卒す。墓碑あり。其文に曰く、/清暁朝天眩色微。新雲先動袞龍衣。/千官拝舞金鑾殿。携得香烟満袖帰。/むかしこの山中に池あり。潮の満干ありて海水の如し。當寺を創建の時池を埋み、其旧蹟を遺して山號を鹽増山といふ。(攝津名所圖會)

鴨神社拝殿。猪名川を渡り南へ阪急、JRを超え、伊丹台地へかかるところに鎮座する。地図も持たず、凡その見当で迷わず行けた自分に思わず拍手。(「攝津名所圖會」所載確認できませんでした)

鴨神社入口手前の道路を挟んで背後にも直線で道が集落の中へ伸びていた。新しい道路が参道をぶった切ったのだ。

鴨神社入口の社名標石。奈良高鴨神社をはじめとし京都からどこから全国にひろがる「カモ族」のお社の一つ。

鴨神社一の鳥居。拝殿まで100m足らずだが実に雰囲気のある参道。周囲は国史跡の加茂遺跡で、何と旧石器時代から平安までの複合遺跡だという

川西市と池田市の、というより兵庫県と大阪府を分ける猪名川を渡る。その昔はどちらも攝津国だったわけだ。
ㅤJR線と阪急の間に飛び石が設えてあり、鯉幟が数十旒空を泳いでいた。土曜日の午後で家族連れが多かった。遠く五月山。

呉服くれは神社本殿。猪名川の飛び石を渡り、堤防から室町の落ち着いた住宅地へ入るとすぐお社に行き着く。場所的に京都と池田、鴨川沿いと猪名川沿いの違いはあっても、この呉服神社と伊居太神社の関係は上賀茂・下鴨両神社の関係に似ているような気がしないでもない。呉織神社(くれはのじんじゃ) 池田の町、南端にあり。此地の生土神とす。例祭九月十八日。社内に猪名津彦の祠、影向石あり。末社五前・観音堂あり。(攝津名所圖會)

周囲の室町住宅街とは方角がずれている。というのは元々神社は東(微北)向きであったのに、住宅街は阪急宝塚線とほぼ同時に開発され、東南から西北に斜行した線路に平行で町づくりが行われたためずれてしまった。と乃公は観察している。

色鮮やかな呉服(くれは)神社拝殿。

室町住宅街の一角に咲いていたエゴノキの花。ゆくりなくも3年前の歌垣山、昨年の小塩山を思い出した。どちらも6月だったなァ。Click拡大

終了後阪急池田から東畑までバスに乗ったものの、新稲で40分待ちとなり、結局箕面まで歩く。あと箕面→千里中央→山体前とバス。箕面→新稲間のバス時間をうまくやれば歩数はもっと少なくなるだろう。

今日の総歩数 17,536歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら