千里中央が出来つつあった頃  1970年2月頃

千里阪急ホテル開業45年だという。かつて“お隣組さん”だった乃公としてあの界隈は古戦場(笑)でもある。土塊がごろごろしていて今の千里中央そのものも、中央環状線も、中国道も、新御堂筋も、北大阪急行も、何もなかったところへ♪1970年のこんにちは♪と万博が開催され、それにつれていろんなものがやって来た。北千里までバスで出、阪急千里線で梅田で地下鉄に乗り継いでいた(堺筋線が無かった)のが、一気に北急で淀屋橋へ出られるようになった。それが万博がオープンした1970年3月。ちょうどこの写真の直後だったのである。 〔この項2015年記〕


深谷公園から万博会場を遠望。白いトンガリはソ連館。左は深谷第二団地A27棟(今はジオメゾンの高層に建て替わった)。赤い屋根は東丘保育所。その右は住宅公団C棟でこの区域一帯が万博外人スタッフの住宅となっていた。手前が所謂“テニヨコ広場”。まだ木々は植えられたばかり


高層棟がまだ工事中だった東町団地C棟の遊び場 (因みに乃公陋屋はここでなく上記A団地24棟だった)


今は無き千里中央“地上”駅。北大阪急行は千里中央ジャンクションの地下で右90度に向きを変えながら地上に出、出たところが駅であった(まだ中国道はなかった)。写真は新田橋からフォームに下りる階段の前。「←万国博会場」、「→大阪市内」の看板が見える。左の赤屋根は千里阪急ホテル、その向こうはC団地、更に向こうが千里中央公園。
まだおつむはげんきだったナ。


千里阪急ホテルは南側一棟だけで開業していたようだ。この写真は新田橋袂から。背後は工事中の公団C高層棟。


深谷池のそばから中央公園へ向かう道も工事中で泥んこだった。この道は今はセルシー2階から陸橋を渡ってゆくが、セルシーが出来たのはこの2年後の秋だった。アイヴィーチャペルもクリスタルチャペルも、まだ何も無い。


これら2枚の写真は、多分今の千里朝日阪急ビルが建っている付近から撮ったものだろう。右は千里阪急(百貨店)、左は今サンタウンという名前になり、千里中央駅上の商業施設になっているところ。間に見える団地は北町C棟。遠く箕面連山。


同所から右商業施設棟、左はいま妙な名前に変っているが大丸ピーコック。その向こうは大阪瓦斯千里エネルギープラント。高級マンション群に湯・冷水を配って当時珍しいセントラル冷暖房をしていたという。これらの商業施設が開業するのはこの年秋万博が閉幕し、千里中央駅がこれらの地下に出来た時点である。


同所から南西方向に工事中の中央環状線と千里中央ジャンクションを望む。
ちょうど中央が島熊山しまくまやまでここが千里ニュータウン最高所といわれる。万葉集にもその名が登場する。


帰途。