“マリアの墓”に詣でる  2021年11月2日

♣ 独 行 “高山の郷を再訪” ♣

この間からずっと引っかかっていたもののうちの一つ:高山のマリアの墓、MapとJordanで調べたら、霊園事務所前から往復歩いたら、バスが霊園内をグルグル回っている時間があれば高山往復は出来る、そう気付いた。そしたら(この後がカン違いなのだ)霊園始発千里中央行きが掴まえられ、1時間遅く、3時半帰宅の予定が。。。この後半がカン違い。。。霊園始発が何本もあるのは土曜休日ダイヤなのだ。帰りしなに気づくバカが居る。嗚呼!

府道4号線(茨木能勢線)北摂霊園入口黄葉

実はこのバス、坐ったままで高山まで行けるのだが、如何せん、ここから霊園最上部(標高差180b)をアップダウンしてからの話。Map計算では歩いてもエエ勝負みたいだし、高山まであまり登りでもないみたい と見極めをつけ、霊園事務所前BSでバスを捨てて歩き出す。歩道がない分少々緊張するが、週日のせいか車数もあまり多くなく、無事に歩けた。要した時間は旧道分かれまで10分余。

城山手前で府道と分かれ左に入るのが(多分)旧道。いつか通ってやろう。

そこから約5分で高札場跡の旧道と合する。青看板は「亀岡20q/妙見10q」

ここでさっきのバスに追い抜かれる。この交差点は高山公民館前でもある。唯一の信号もある。雨量表示板もある。高山の中心部。

青看板下に「右妙見道」の道標。

お城のような石垣・塀を構えるのは本願寺派の寺院・光明寺。左に見てさらに進む。

住吉神社分かれの道標に「マリアの墓300m」とあったのにこの登り口にまたまた「マリアの墓300m」とある。

ここにはもう距離表示がない。

とうとう山に入ってしまう。あの入口に「☜」標示があって、それから数bの“登山”。

「マリアの墓」到着。EL475b。上左の登り口から比高32b。

高山マリの墓
墓碑は4基からなり、なぜか1基が離れている。墓碑には、江戸時代中期の元文・延享・寛延(1730〜51)の年号が刻まれており、2組の夫婦の墓と伝えられている。 当地、高山はキリシタン大名として名を馳せた高山右近の居城のあともあり、キリシタンとは関係の深い土地柄である。 「マリ」の墓の所伝は不明であるが、明治時代の古老によると江戸幕府のキリシタン禁教後、キリスト教徒はほとんど姿を消したが、村には2軒が残り、やがて転宗したといわれている。所伝が正しければ、この2軒の夫婦が、墓碑2組の夫婦とも考えられ、江戸時代、高山でのキリシタンは寛延年間頃で後を絶ったことになる。      平成5年11月 豊能町教育委員会

〔さえらのすし注記〕本文中「マリア」と「マリヤ」が混在しているが、すべて実標記に即して記載した。疑問の向きは豊能町教育委員会に問い合わせられたい。なお、さえらのすしの地の文は「マリア」に統一してある。

“高山の棚田”。住吉神社の北東の谷筋に広がる。どこか高いところに登って俯瞰すればベストなのだろうが。

かくして高山再訪は成った、と言いたいところだが、出発前MapとJordanを駆使して作成したメモを見て愕然。1時間余裕があったつもりが勘違いで前回と同じバスでないと夕方になってしまうことが判明。帰途も霊園事務所前まで歩いて、降りてきたバスを拾って、と。それも旧道を迂回して、という心積もりが雲散霧消。これでは3時半帰宅予定が1時間がとこ早くなってしまう。考えあぐねた末、粟生団地で茨木行に乗り換えようと、急遽予定を変更する。

バス停で金木犀の写真を撮って、茨木行きを見たらば半時間超待ちではないか。ウロウロしているうちに千里中央行きが2本行ってしまった。エイままよ、と歩くことに決する。粟生新家を南北縦断。箕面東公園東縁をなぞってR171沿い小野原西BSに出る。ああシンド。(アルシンドになっちゃったよ!)

=千里中央=霊園事務所前BS→高山→マリアの墓(昼餉)→高山BS=粟生団地→小野原西BS=JR茨木=

今日の総歩数 9,999 歩    ̄|△| ̄   ルートマップは省略