寺内町跡が散在する枚方のまち
2021年2月16日

♣ 独 行“枚方市内の御坊巡り” ♣

朝日カルチャーくずは教室で貝塚と大ヶ塚、AZで富田林、つられて総持寺の富田御坊ときたら次は北河内と尼崎。何の話かといえば寺内町なのだが、この辺の定義は難しい。原則的に寺内町の面影の残存する街並みを主とし、大凡で「・・御坊」という呼称の残る寺院を加える、そういうことにしておこう。
ㅤそういうことにしたものの、早速スタートでドジ。JR茨木経由枚方というバス乗り継ぎルートを決めていたのに1時間早く出たら山体でバスがない。戻るわけにもゆかず、山田経由MR門真市経由京阪となると第1ターゲットは牧野ではなくて光善寺になるではないか!

光善寺駅11:32。電車が傾いているが写真はスクエア(別に脱線しているわけではない)。西出口を出て行程は西北へ850b。

お、あった。「蓮如上人御墓東二丁」

分かれ道の道標「右出口光善寺 三島江わたしば/左大阪」もちろん右をとる。

蓮如上人説法の場所と伝える。「親鸞聖人/蓮如上人御田地」。右の丸い石は蓮如上人の腰掛石だという。

それきた、今日の第一ターゲット到着。山門脇の寺名碑「出口御坊/淵埋山光善寺」

山門左に「☜/蓮如上人/御腰掛石霊跡/是ヨリ二丁」の碑。さっき通ってきた。

Sample

真宗大谷派 淵埋山 出口御坊光善寺は、蓮如が開基したと伝える寺院。境内の説明版を抄録する。「枚方市指定史跡/光善寺(出口御坊跡)/出口は文明七年(1475)本願寺第八世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町である。(後略)」onmouse-自撮りup 【河内名所図会】に謂う。淵埋山光善寺(ゑんまいさんくはうぜんじ) 出口村にあり。又、梓原堂と号す。本願寺宗、今、東六条に属す。(中略)正徳の初まで西派なりしが、故あって東派となる。(略)

本堂前の蓮如上人像

太鼓櫓。これと鐘楼が山門の左右に配置されているのが真宗の寺院に多いそうな。

さ、京街道沿いに延々2.3`。途中府道13号線枚方大橋南詰交差点を渡り、

(道をちょっと間違えた)京阪枚方公園駅前を横目に見て、

門前の碑に「蓮如上人徒弟/岩見入道開基 松風山浄念寺」 とある浄念寺(真宗本願寺派)前に到着。明応4年(1495)三矢村惣道場開基。永禄2年(1559)に蓮如上人第27子の実従が順興寺に入寺し、一家衆寺院として隆盛を極め付近一帯は寺内町として栄える。天和2年(1682)の本願寺分裂で、西本願寺は浄念寺を、東本願寺は願生坊を建立。元文4年(1739)本願寺15代佳如の時、本寺兼帯所となり門跡御坊(枚方御坊)と称した。云々。。

東へ100b程行った踏切脇にある碑。「蓮如上人御舊跡 舊名順興寺/谷御坊」・・・・読み方合ってるのかな?

説明板の類は滅多に載せない乃公であるが、これは例外。浄念寺と願生坊のかかわりがわかる。「枚方と浄土真宗の出会いは戦国時代の順興寺建立に遡り(後略)」

そして踏切のすぐ後ろに控えしは 真宗大谷派香雲台願生坊。浄念寺との関わりから再掲=明応4年(1495)三矢村惣道場開基。永禄2年(1559)に蓮如上人第27子の実従が順興寺に入寺し、一家衆寺院として隆盛を極め付近一帯は寺内町として栄える。天和2年(1682)の本願寺分裂で、西本願寺は浄念寺を、東本願寺は願生坊を建立。元文4年(1739)本願寺15代佳如の時、本寺兼帯所となり門跡御坊(枚方御坊)と称した。云々。。

京阪沿いに北行し、枚方市駅から牧野駅へ電車。そこから招堤向いて東向き微南のバス道を歩くこと2`弱。

招堤口交差点は六差路。南西からきて北東へ斜めに入ってゆくのが多分旧道〔写真左の道〕。ここから約600b→

→行くと この玉垣様のものが見え、左折して山門にいたる。

Sample

招堤の中心 敬応寺の本堂。蓮如の子蓮淳により建てられた道場がその起源で、ここを中心に招堤寺内町ができた。16C末にいったん衰微したが程なく復興されて今の寺名となった。

敬応寺を東に出ると、かつて東の防塁となった池がある。

池を東側へ回ると御寺との関連が明確になる。池は左=南方へ続いていたが、

今は埋め立てられて 御堂池遊水池広場 となっている。池はもと現状の2倍以上あったものと思われる。

敬応寺境内にあった枚方市教育委員会の説明板=[招堤寺内町と敬応寺] click→UP

かくしてドジで始まった今日の寺内町を枚方に訪う散策は無事終了。招堤口まで戻り、ちょうど来た枚方市駅行きバスの人となり、同駅でJR茨木行に乗り換え、ドジのリベンジ成る。朝からこれだと問題なかったのだが。。。そうか、それだと1万5千歩ゆかなかったか。

今日の総歩数 15,313 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら