東久代久代東野荻野口谷  2020年9月30日

♣ 独 行“川西伊丹宝塚の春日社を巡る” ♣

兵庫県側へ府県境を越えるのはコロナ勃発以来2回目。京都側への先日の1回を含め3回目になるが、お社巡りは幸か不幸か人影を見ることは(基本的に)あまりない。それはともかくとして、今日のコースは大凡10`なので暑さが収まってからと考えていた。天気予報的に微妙であったし、夏真っ盛りに比べてマシだった。とはいうものの山本駅からの帰途、背中のベタベタ感は何とも気持ち悪くて、ちょっとまだ早かったか。それにしても工夫のないタイトル

JR北伊丹駅。11:34宝塚行き発車。目の前は西猪名公園。南半分は伊丹市で北半分は川西市。

西猪名公園のはずれに懐かしい名前“高芝”水源池。故郷の隣の字名と同じ。

川西市東久代に坐す春日神社。といいたいところだが「坐」さないという珍しい神社。境内に久代坐春日社への遥拝用の碑があるほかは細原??大明神、青面金剛の碑 くらいしかなく、春日神社用地記念碑なる摩訶不思議なものまで見ていると、ここが神社?という気になってくる。鳥居の間に正面切って見えているのは東久代春日会館。つまり公民館みたいなもの。つまり「東久代坐春日神社」としての拝礼主体がないのである。(写真は左から社頭鳥居、「久代春日神社遥拝所」碑、境内外観)。因みにここは猪名川の氾濫原。

     

写真は左から社頭社名表示碑、社頭鳥居扁額、社頭灯籠、春日神社用地記念碑
以下は乃公の想像
久代春日神社に合祀されたままらしいので、何時の日か当地に還幸遷座する機会を待っている状態なのかな?

西行幾ばくも無く見えてきた久代春日社の豪壮な社叢。伊丹台地の縁だ。稲田が季節を教えてくれる。

社頭神橋。当社もかつて低地(猪名川氾濫原)に坐したのを江戸時代この地に遷座したと伝える。

社頭一の鳥居。石段途中(右写真)に二の鳥居が見える。

参道は53段を数えた。遊びの少ない石段は手すりを持たないと 後ろに引っ張られそうで怖い。

Sample

川西市久代に坐す春日神社。写真左から三の鳥居越しの社殿、拝殿、本殿覆屋。祭神は天児屋根命。

境内にあった水利組合関連の遺物。手前「分水石の由来/…加茂井組水利組合」【巨石】、その後ろ「分水溝石(不明)…加茂井(不明)」【石板組合せ】、右「外樋内樋由来/…久代(不明)水利組合」【木組の樋と石組】その他。猪名川氾濫原の水田化で克服しなければならなかった「水利」。先人の苦労がしのばれる。

南口の鳥居。
ㅤここから方向を定めるのにしばらく時間を要した。まずこの鳥居がどちらを向いているのか。東から西に向かって石段を登り、東に正面を向けたお社に参ったのだから…。それと、南には山がない筈…。右を向くと山。どうやらあれは六甲らしい。エーイ、行け。

自衛隊の傍を通り、だんだんわからなくなってきて、途中でヤングミセスを掴まえて教えてもらう「あの自動車の曲がった道を右折して道なりに行きなさい」。“道なりに”ってエェ文句やなぁ。そして あったが、、え?
ㅤ鳥居の扁額は「素盞嗚神社」ではないか!?

Sample

伊丹市東野に坐す春日神社。で合ってました。あーよかった。
ㅤ傍まで行くと「春日神社略誌」という説明石板が目に留まり、拝殿長押部分にも「春日神社由緒記」という説明板があって“あー安心した”。 写真左から素盞嗚神社の扁額のかかる社頭鳥居、補強の突っ支い棒の目立つ拝殿、本殿覆屋。祭神は天児屋根命、素戔鳴命。

この二つの説明板でややこしい事情が判明。もとこの地に坐したのは素盞嗚神社だが、明治末期に例の神社統合の動きで大野に坐す春日神社を合祀したとき社名を春日神社に変更したらしい。ふつう逆だと思う(“素盞嗚”を存続社名とする)んだが、何か事情があったのでしょう。

東野春日社の傍で見かけた黄色いヒガンバナ(リコリス)。またの名を鍾馗水仙(ショウキズイセン)ともいうとものの本にあった。鍾馗さんは疫鬼を祓い病を除く神。一日も早いコロナの退散を願ったことであった。

伊丹市荻野に坐す春日神社。社頭の説明板によれば「当社の祭神は春日大神で永正年間(西暦1518年前後)には源正寺の北方に鎮座してゐたのを寛文元年(西暦1661年)現在の地に遷座した」云々とある。写真は左から社頭鳥居、拝殿、本殿覆屋。

Sample Sample

春日社の境内社 天満神社。
 onmouse-仔抱き阿形狛犬(右側)with顎マスクup

そばを流れる天神川。河床がお社より数b高い、いわゆる天井川の典型。(ひょっとして天神川でなく、天井川の転訛か?そんな訳ないよナ)。onmouse-名神UP

堤防道を5百b直進し上右写真onmouseの名神高速で右折、8百b進んだところで名神をくぐってGoogleMap指示通りに丸橋小学校を巻いてゆくと行き止まり。(新興住宅地なんてキライだ)。戻って細道を行くとこれも行き止まり。とどのつまり北に大回りしてようやく社頭の玉垣が見えたときは安堵感しかなかった。GoogleMapでは時々絶対に通れないルートを指示されることがあるが、目の前田圃道ならいざ知らず、行き止まりの住宅地では塀や垣根を乗り越えることなど不可能。便利に使わせて貰っているだけにGoogleさん、何とかしてチョーダイ。

宝塚市口谷に坐す春日神社。祭神は天児屋根命、武甕槌命、経津主命、天児屋根比売命(春日大神と総称)。社頭由緒書き抜粋「創建年月不詳、口谷の地は古来山本ママの一部であったが、慶長(1596-1614)のころ開村、寛延元年(1748)本村と高を分けた。/山本荘は松尾大社領となった時期があったが、口谷は南接の久代、荻野、東野と共に多田院を通じ藤原家の勢力の及ぶ人達の住まう地域で、藤原家氏神の春日大神を奉斎したと考えられる。」

社頭玉垣。ここからお社まで140bある。

拝殿扁額“春日宮”

口谷集落の案内板。姓名表記という至極わかりやすい表示。勘定したら全部で70軒、そのうち何と“阪上”姓が48軒あって驚き。なるほど。姓だけでは区別付かないんだ。

阪急山本駅まで2`弱。途中で足に吊りが来たが何とか持ちこたえた。14:48の大阪梅田行き急行で帰途につく。

海抜でいうと15bの北伊丹駅。久代の在はほぼ同じくらいだろう。久代の春日社は53段の石段を登って35b。あとは東野、荻野、口谷とあまり変わらない。山本駅は宝塚線が山手に作られたことも相俟って約50bだった。JRのガード付近は40b程度なのでこの辺から山手への傾斜地になるということか。つまり今日の巡拝行は東久代を除けばすべて“伊丹台地”の上を右往左往したことになる。これがもう少し西に寄ると武庫川の氾濫原。「西は武庫川まで」と区切った此の地ではあと2社を残す。それはまたいずれ、ということで。今日はお疲れさん。

今日の総歩数 (8.6`÷0.65×1.3≒)17,000歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら