神と仏の道を歩くことに  2020年1月30日

♣ 独 行“新屋坐神社から總持寺へ” ♣

【能書】2008年に神仏霊場会編になる「神と仏の道を歩く」が発刊されてもう10年が過ぎた。乃公が式内社を“意識して”歩き出したのが2010年と記憶しているのでほぼその時期は重なる。というより、前掲書を目にしたことが式内社歩きに目を開かせてくれたのかも知れない。この10年は摂河泉を中心とした畿内の日帰り可能なお社参詣に明け暮れたのだが、ボチボチしんどくなってきた(身体プラス交通費)こともあって、方針をゆるやかに、と思い直した。今回のみならず前回の「久宝寺→平野」歩きがすでにその一環となったようである。

「新屋坐天照御魂神社」は神名帳に「三座」と記され、1年前訪れた宿河原坐のほか茨木市内に2座ある。それを繋いだら、西国札所の一・総持寺も近いところから、それをコースに、というのが今日の「新屋坐神社から総持寺へ」の所以(というほど大層なものではないが)である。JR茨木乗り換えで福井宮の前に降り立った。とき正に11時00分。

話を分かり易くするために実行程をバラす。左の宮橋は佐保川にかかる橋。向こうに一の鳥居が見え、お宮まで一直線の参道。渡るとまもなく右の無粋な「高さ制限門型柱」にガードされた一の鳥居をくぐる。そしてバス道路(R110)↓

福井宮の前でバスを降りるとそこはもう門前。門前というより参道の途中(途中をバス道がぶった切っている)。東福井の在から川を渡り一の鳥居を過ぎて100mほどにこの社名石碑がある。遠く二の鳥居に下げられた幣が見えた。

今日の第@ターゲット・式内新屋坐天照御魂にいやにいますあまてるみたま神社。左から二の鳥居、拝殿、屋根だけ見える本殿。「新屋坐」とはいいながら同名社が3社あるのでややこしい。「福井の在に坐す」を追加しないと区別できないよなあ。

Sample

攝津名所圖會に曰く 新屋坐天照御魂神社三座(にひやにいますあまてらすみたまのかみのやしろさんざ) 西川原村にあり。〔延喜式〕神名帳に曰く、名神大。月次、新嘗。就中天照御魂神一座。預相嘗祭云云。〔三代実録〕に曰く、貞観元年正月授従四位下。同五月新屋座天照神伴酒着神幷授正五位上云云。天照御魂神一座は西川原村にあり。近隣七箇村の生土神とす。一座は福井村にあり。今天王と称す。〔上梁文〕に曰く、天正十二年八月領主中川瀬平清秀三座を造営す。一座は上川原村にあり。称して天照太神といふ。清水村も亦祭祀を共にす。 並河誠所が建てた式内社比定社名石碑を撮るのを忘れた。

Sample

社頭の灯籠に 「社僧・・」 とあるのを見つけてびっくり。でも な、明治初年の神仏分離政策以前は当たり前というか不思議でも何でもなかったのだ。これが。(click)

石神(大海おおわだ神)碑。明治の中頃まで旱魃の時、荒縄でしばりかついで耳原井手に水づけにし、雨が降れば引き上げて元にもどして礼拝した(同社WEBサイト引用)

バス道まで戻り、冒頭記述の一の鳥居・宮橋を渡って東へ約1`半。新興住宅地(将軍山住宅)の上まで登り返す。

今日の第Aターゲット・大職冠たいしょくかん神社。左から社頭鳥居と社名碑「大職冠神社」、将軍塚古墳(6世紀:伝藤原鎌足墳)、顕彰碑「大職冠鎌足公古廟」。7世紀の人である鎌足がこの墳の被葬者である可能性は低いと言われる。
大職冠鎌足公荒塚(たいしょくくわんかまたりこうのあれづか) 安威村の西にあり。方三町許り。一堆の丘山なり。これを安威山といふ。嶺に石窟あり。墳前に華表あり。土人将軍塚といふ。(後略)【攝津名所圖會】

この左奥に将軍山古墳(全長107bの前方後円墳)があったと伝えられるが、今は削り取られて追手門学院のグラウンドと化し、石棺の蓋だけが辛うじて残されている。。。それを見てから東南方の「小山」を目指す。

安威川にかかる橋上から北望。遠く竜王山(左)、阿武山(右)。その頂上近くの白い建物は京都大学地震観測所。

太田小学校南の池。鴨休憩。

雲見坂。攝津名所圖會にいう。雲見坂(くもみざか) 太田村にあり。太田頼基こゝにて天文を見て雲氣を考へ、軍の勝敗をさとりし所といふ。 背後の工事現場は「太田東芝町」の名が残る東芝の工場跡。何が出来るんだろう?

今日の第Bターゲット・式内 太田おおだ神社。左から社頭鳥居、工事中の拝殿、本殿。係の人に聞いても何のために拝殿だけ工事しているのか(地震か台風かはたまた老朽か)わからずじまいであった。攝津名所圖會に曰く太田神社(おほたのじんじゃ) 太田村にあり。〔延喜式〕に出づ。俗傳に云ふ、相殿三座。内宮・外宮・天王を祭る。摂社天満宮。」

〔前述「小山」はここ〕太田茶臼山古墳(宮内庁により繼體天皇三島(嶋)藍野陵として管理されている)。

東芝工場跡の南側大部分は追手門学院中高キャンパス。立派な建物が櫛比する。

追手門キャンパスから市のスポーツ施設を挟んで 今日の第Cターゲット・式内新屋坐天照御魂にいやにいますあまてるみたま神社。「新屋坐」は今日二つ目で、当社だけは「新屋神社」という通称(別名)があるそうな。左から社頭標柱、拝殿、本殿(覆屋)。
ㅤ攝津名所圖會に曰く 新屋坐天照御魂神社三座(にひやにいますあまてらすみたまのかみのやしろさんざ) 西川原村にあり。〔延喜式〕神名帳に曰く、名神大。月次、新嘗。就中天照御魂神一座。預相嘗祭云云。〔三代実録〕に曰く、貞観元年正月授従四位下。同五月新屋座天照神伴酒着神幷授正五位上云云。天照御魂神一座は西川原村にあり。近隣七箇村の生土神とす。一座は福井村にあり。今天王と称す。〔上梁文〕に曰く、天正十二年八月領主中川瀬平清秀三座を造営す。一座は上川原村にあり。称して天照太神といふ。清水村も亦祭祀を共にす。」 拝殿前の式内社標石は(click)拡大。→(注)云の下に鬼と書くのは「魂」に同じ

疣水神社さんは道の反対側から手を合わせてpass。

そして今日の最終(第D)ポイント・総持寺。山門を仰ぐ。

階段の傍で寺号碑を背負う亀趺(きふ)。本尊の千手観音(秘仏)も亀の背に乗るという。

開山堂

補陀落山總持寺本堂。当寺は高野山真言宗に属し西国三十三番第二十二番札所。 補陀落山惣持寺(ふだらくさんそうぢじ) 寺領惣持寺村にあり。眞言宗古義。西國巡禮所第二十二番。本尊十一面千手觀世音 和州泊瀬觀音化現童子の作。栴檀香木。三尺。(後略)【攝津名所圖會】

本堂前の八角灯籠

本堂から山門を望む

梅チラホラ

普悲(ふひ)観音堂の普悲ぼけ封じ観音

2回の「神と仏の・・」を振り返って痛感すること。それは大半の式内社が社叢と共に「存在する」だけに化している現状を見てきた乃公の目に、神仏霊場会に手を挙げた150社寺は(一部未訪があるものの)「自ら動く」存在である、と映った。明治初年のあのとんでもない「神仏分離」政策と、それにワル乗りした“叩き壊し”からほぼ一世紀。日本人の「カミ、ホトケ」観念と自然への1千年有余年の歴史をもつ対処のしかたへの回帰を一歩ずつながら刻み始めたのではないか。前向きにそう捉えて、これからの乃公の齢相応の動きを律してゆきたいと念ずる。

今日の総歩数 (6.2km÷0.65+α≒)1万歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら