稗田の環濠集落だよ  2017年1月17日

♣ 独 行“大和郡山の式内社を歩く” ♣

昨夜一所懸命に飛鳥の式内社の経済的?な廻り方を検討していたのだが、今朝急に“このお日和”は余り続かない、と気付き、急遽出立。となると検討不十分の昨夜のコースは取り敢えずお預けで、ながらく満を持して持ちこたえてきた(何?)郡山市内コースのマップを掴んで飛び出す。それにしても今日は風がよく吹いた。帽子が飛びそうで押さえながら歩くのは様にならないものである。

相変わらず“寺快速だな”と独り言ちながら11時ちょうど郡山駅に降り立つ。

駅南の踏切を渡るとすぐ見られる赤膚焼の窯元。その塀は見事に焼物陳列棚と化している。

今日都合4回渡ることになる佐保川にかかる橋にさしかかる。ここは「郡界橋」

駅から約半時間東南行して稗田の郷に辿りつく。ここは集落の北を限る濠。

南の濠のそばに掲げられた稗田集落の鳥瞰図。周囲の条里の向きで、右上が南、左下が北。鎮守の杜を含み周濠で囲繞されたこの集落の様子がよく判る。

今日の最初のターゲット・式内賣太めた神社。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。稗田集落の南東隅に坐し、鳥居は南面するが、社殿は東面する。当社は何故か大和名所図会には見えない。稗田阿礼の記述すらない。

境内に建つ 第一回阿礼祭記念碑。1930年児童文学者の久留島武彦が全国の童話作家に呼びかけて始まった祭という。

その傍に立つ厳谷小波の句碑♪言霊の葉には秋無し神の森♪ 小波

南の環濠に建つ標識「大和郡山市指定史跡/稗田環濠及び集落」。勝手ながらこの辺りは整備され過ぎで少々シラケる。

売太橋からみた賣太神社の杜全景。古い集落だし阿礼さんと同じ苗字がないか探していたら(無い)、神社西隣に宮西さんというお家があった。

同所から東の環濠を北望。この先東北隅に「中国の漢の時代の長安故城を模してつくられた」という七曲りがある。というが、、パス。

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和爾下神社近くにある「橋の跡」。写真には北東(手前)と南西側(向う)の高欄が写っているが、この下に川はなく、親柱から川名や橋名すべて削り取られている。地形図=onmouse=でも周囲の川らしい痕跡はまったく認められない。ナンジャコリャ。恐らく、今は数十b北を流れている川が現流路に付け替えられる前には、ここを流れていたのではないかと思われる。それもさして遠くない頃に。

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今日の第Aターゲット・式内和爾下わにした神社(下治道宮シモハルミチノミヤ下治道天王社シモジドウテンノウシャともいう)。左から社頭鳥居、拝殿(絵馬殿?)、本殿。社頭灯籠に「牛頭天王ゴズテンノウ」と刻まれている。下治道天王・・社の名が残るわけだ。大和名所図会にこう記す。「和爾下神社(わにのもとのじんじゃ)二座 横田村と櫟本村とにあり。治道天皇と称す。〔神名帳〕に出づ。」 

ここから筒井へ向かって西行2km余り。右後方面に若草山、左遠く冠雪した鷲峰山方面。

ややあって佐保川を渡り返す。「井筒橋」から南西方向葛城山金剛山方面、右方に二上山(雄岳)を望む。

第Bターゲット・八幡宮はちまんぐう。鳥居扁額には「八幡宮」とある。左奥200mに坐す菅田比賣神社に江戸末期に合祀されていたと伝える。拝殿内に「八幡菅田比賣神社」と書かれたものがあるというのもその証左か。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。

続いて第Cターゲット・式内菅田比賣すがたひめ神社。左から社頭鳥居、拝殿、本殿。珍しく鳥居は北を向くが社殿は東面する。これから訪れる最終ターゲット・菅田神社と対のお社らしい。梅鉢の紋所があるモンな。

三度び佐保川を渡るこの橋は「三郷橋」。向こうの鉄橋を渡る近鉄天理線の電車が見える。

今日最後のターゲット・式内菅田すがた神社。立派な社叢をもつが珍しく鳥居がない。お社の東方500mに一の鳥居があるらしいが未見。左から拝殿、本殿、そして「天満宮」銘が刻まれた灯籠。社伝によれば近世まで天満天神を祀ったという。大和名所図会にはこの菅田のついたお社の記述が一切ない。賣太神社もなかったし、この辺りの事情が分かれば知りたいもの。何か深いわけでもあるのかな?

4回目の佐保川は三郷橋の渡り返し。渡り終えた所にこの石碑があり、「右郡山京/左法隆寺龍田高田高野/道」と読めた。右面は多分七字題目。

堤防道を降りて電車のガードを二度くぐると近鉄平端ひらはた駅。とき将に14時16分。だいぶん雲が多くなってきた。

途中2軒ほどコンビニで例のものを探したがあろうはずもなく、帰りの西大寺乗り換え時に「エキナカ」でパンを食べる。塩パン 久しぶりで美味しかった。

今日の総歩数 18,227 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら