竹田から淀へ  2014年12月28日

♣ 独 行“山城の式内社巡り5回目” ♣

 

綴喜方面を歩いてから3ヵ月。それ以降何かの序でに東大寺境内にある小社には立ち寄ったが、しっかり歩いたのは指折り数えて3ヵ月ぶりということ。なんやかんやあり過ぎて一段落したのこの辺で、ということで思い立ってスタートした。このあたりは戊辰戦役の緒戦となった鳥羽伏見の戦いの古戦場。そのあたりにターゲットを絞ればまた興趣が尽きないのであろうが、如何せん、乃公は冒頭の城南宮社頭掲示板ではじめて気づいたという体たらく。

▲なお、お社記事に特化したページは こちら     ▼山城の式内社一覧ページは あちら

竹田駅を下車して歩き出したのだが、阪神高速8号京都線を越えたあたりから何か物凄いことになってきて、気を遣いながら(?)通り抜けに要した十数分。ようやくこの城南宮の東参道に立つ鳥居を見たときは訳も無くホッとした。掲額はなぜか城南宮でなく「城南離宮」。

摂社の数々。左から 城南宮の地主神的存在・真幡支(まはたき)神社=今日の第1ターゲット=、芹川神社という扁額のかかる唐渡(からわたり)天満宮、三照宮(さんしょうぐう)社。そしてご本社・城南宮(じょうなんぐう)=第2ターゲット=

当社は熊野詣が盛んだった頃参篭して精進潔斎し、ここから川を下って出立して行ったという境内の掲示板「熊野詣出立の地」

お宮から少し西にある公園の説明掲示板「鳥羽伏見の戦い跡

平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営し院政を行ったた離宮の跡(11C)。かつまた明治維新の発端となった戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いが始まった(19C)場所でもある。今や少年野球の掛け声が響く。

公園北の戦跡・秋ノ山に建つ鳥羽殿跡の碑。

鳥羽離宮南殿の跡地。こちらでは少年サッカーの練習中であった。右手のマンションは桂川左岸の自然堤防上に位置するが、その前を通るのが千本通。淀の納所町まで続き、鳥羽伏見の戦で幕府軍の敗残退却路となった。

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横大路の飛鳥田神社の北2.5kmにある安須加多あすかた神社は第3のターゲット。この生垣の中に隠れていて見逃すところだった。

伏見城大手筋と京阪国道の交差が南西へ伸びる道、それが”伏見の八丁畷”である。バス停名にその痕跡を残すが、その南に坐す田中神社。第4ターゲットのこのお社東南隅に「北向虫八幡宮」が坐す。

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祠の前に埋もれかけている社号碑には「北向兒八幡宮」とある。疳の虫封じの伝承=「虫八幡」、涎掛け奉納の慣習=「兒八幡」 どっちもあり、か。ネット上論調では大家・田中神社よりこのお社の方が古い、と。

横大路柿ノ本に坐す飛鳥田神社。これが最終第5ターゲット。戸原さんサイトによれば相当ヒドイ状態だったらしいがご覧のとおりキレイになってますよ。鳥居が西向きで社殿が南向き、ってあちこちで見たなァ。

そんなこんなで あとは千本通を一路南下。途中から桂川左岸の堤防に上がり、チャリンコ道を歩く。

行く先には男山(木の向こう)、その右に天王山が見える。この辺は横大路中ノ島町

振り向けば北方に愛宕山。

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更に右方向に比叡山。目を凝らせばその左に雪をいただいた比良の山(多分蓬莱山)。onmouse-upすると羽束師橋が見える

かつらがわ/三川合流点から4.0km」の標識。ちなみに三川とはここ桂川(鴨川を既に合わせた)、宇治川、そして木津川。

横大路富ノ森の集落に入ると急に雰囲気が変わる。

町内にあった「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑。卒塔婆からこの地が「愛宕茶屋」だとわかる。

そして10分足らずで京阪淀駅到着。駅に何かあると思って来たのに何もない。バスで茨木へ出るつもりで枚方市で下車したらバス発車寸前。いろいろありまして15時前JR茨木駅付近でという遅昼になってしまった。でも、チャーシューメン 美味しかった。

今日の総歩数 17,722 歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら