2012年 お社巡り  − その1 −

  

若江郡・川俣かわまた神社 3月3日

この辺は第二寝屋川にかかる橋に向かって道路が登ってゆく。川俣大橋から眺めると、神社の鎮座地は川の水面と“ツライチ”。つまり“準”天井川なのである。かにかくに「河内潟」の痕跡色濃い土地ではある。川俣(かはまた)神社 鍫鍬。〔延喜式〕出。川俣村にあり。此所の生土神とす。(後略:河内名所圖會)」。 神社は東面する。

拝殿。右脇に神椿二株が植わって花をつけていた。

本殿。何と色気(って言ってはいけないのかな)のない覆屋!

長田ながた神社(若江郡・意支部神社論社の一) 3月3日

長田に坐す長田神社は式内社・意支部おきべ神社の論社の一。しかし河内名所圖會には言及がなく、明治7年の河泉神社記にも 「已に所在を失う、本郡御厨長田両邨之を争い、未決」 とあるらしい。それからすると社頭の碑に「式内社 長田神社」とあるのは、後継社としての当否は別として、「間違い」である。鳥居と注連縄が立派だが。

拝殿。手前の燈籠一対はいわゆる「おかげ燈籠」で慶応3年(1867)の銘がある。

本殿。当社は西面し、社前に寺院がある。その門前にももう一基のおかげ燈籠がある。

天神社てんじんしゃ(若江郡・意支部神社論社の一) 3月3日

第二寝屋川を挟んで長田神社と相対する。御厨に坐す天神社。これも式内・意支部神社の論社の一つで、河内名所圖會には記載がない。社頭の掲示には「創建年代は文献等がなく分からないが、延喜式神名帳にみえる意支部神社が、この神社であるとも伝えられている」と書かれており、状況は長田神社と変わらない。

拝殿。ちょうど赤ちゃんのお宮参りに出くわした。

本殿。当社は南面(南微西)する。

この途中河内永和駅近くで鴨高田神社を見つけて飛び込み写真をしっかり撮った(はじめてだと思ったのだ)。しかし帰って確認したら、昨年訪問していたことが判明(→こちら)。通り一遍のことをしていると得てしてこういう羽目に陥る。反省。

布施えびす神社(渋川郡・都留彌神社跡地) 3月3日

近鉄布施駅に程近く坐す布施夷神社。正面右の社名碑に隠れているが、石柵寄進者筆頭に塩ジイなる元政治家の名前を見つけた。

毎年1月の十日戎には商売繁盛を願う参拝者で境内地は身動きができないほどの賑わいとなるという。

実はここは式内社・都留彌神社の旧鎮座地。今は東900mの荒川に遷座した都留彌神社の御旅所がここにおかれている。都留弥(とるみの)神社 足代村にあり。〔延喜式〕出。今、天神と称す。此地の生土神とす。当地の名産、籃笠世に名高し。莎草をもってこれを作る。(河内名所圖會)」

渋川郡・横野よこの神社跡地 3月3日

横野神社は明治末期に巽神社に合祀された(巽神社は昨年2月に訪れて南巽駅から帰宅した、と、そうブログには書いてある。近くまで来ていたんだ)。 横野(よこのの)神社 大池村にあり。〔延喜式〕出。今、印色ノ宮と称す。此所の生土神とす。(河内名所圖會)」。 今日訪れたのはこの旧社地。ベストワンという会社ビルの南西角を削った形で古社地を示す碑が建てられている。曰く『式内 横野神社旧跡』

下御霊しもごりょう神社(愛宕郡・出雲井於神社論社の一) 2月29日

寺町通丸太町を少し下がった東側に鎮座する下御霊神社。式内・出雲井於神社の論社という。出雲井於神社は現在賀茂御祖神社(つまり下鴨神社)と同一敷地内にあるが、これも研究者によって論社に挙げられた。“出雲路の井戸”云々で井於神社に比定されたのかもしれないが、境内の銘水には伝承がないという。 下御霊社(しもごりょうのやしろ) は京極通り春日(いま丸太町といふ)の南にあり。祭る神は八所の御霊にして、上御霊と同神なり(八所の人名は上にしるす。例祭は上御霊と同日なり)。(後略:都名所圖會)」

拝殿。京都によく見られる「舞殿」形式。

本殿および拝所。因みに当社のどこにも「式内」を示唆する掲示は見られない。

高安郡・御祖みおや神社跡地 2月21日

前回探し損ねた2社跡地。今回は準備万端相整えて出発。まず御祖神社跡。片隅にこれ「おかげ燈籠」?。「太神宮」と書いてないが。

服部川駅からほぼ真北500m。大窪地区会館のそばの小公園にある。山車倉庫のほかは無いに等しい閑散さ。

生駒信貴連峰を背にさびしく立つ碑。明治41年に玉祖神社に合祀され、昭和13年この碑が旧地に建てられたという。 御祖(みおや)神社 大窪村にあり。〔延喜式〕出。(中略)此所の生土神とす。(河内名所圖會)」

高安郡・かも(賀茂)神社跡地 2月21日

東高野街道と外環状線の間、工場・倉庫・重機置場の陰の畑の中の窪地状の物凄いところにある鴨神社跡。

ネット上の説明を熟読して行ったお蔭でたどり着けた。さっきの御祖神社跡とは違い丁寧にされているのだが。。。

周りの風景があまりにも物凄くも物悲しい。窪地という存在が寂寥感に輪をかける。ここも明治40年玉祖神社に合祀され、この碑とそばの小祠は昭和46年のものという。 鴨(かもの)神社 大竹村にあり。鴨森といふ。〔延喜式〕出。此所の生土神とす。(河内名所圖會)」 これが18世紀末「鴨森」と言われていた場所なのか。

三十八みそや神社 2月21日

福万寺町内に鎮座する三十八神社。三十八の「三」は祭神三柱、「十八」は神々に対する敬語だという。ここは式内社ではなく、14世紀福万寺城址に勧請されたものという。きれいな町並みの中でいかにも地域の氏神様として斎き守られている様が伺われた。なおこの地は条里制の遺構が明確に残る地だという。社名碑脇の石標に詳しく書かれていた(略)。お社は西面し、一の鳥居は西方100mほどに建つ。

河内郡・津原つはら神社 2月21日

式内・津原神社。長い参道のドン突き・花園本町に鎮座。南面する。 津原(つはら)神社 〔延喜式〕出。市場村津原池の側にあり。今、玉串明神と称す。此地の本居神とす。(後略:河内名所圖會)」。 ここは近鉄奈良線河内花園駅の南すぐ。

拝殿

本殿(覆屋内)

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本殿背後にある「津原の池」。名所圖會に言う「市場村津原池」これなるか。そういえば鴨神社跡の石碑後にも小さな池らしきものがあった。

かつて600mにわたる参道には松が生い茂り、馬駆け神事や時代劇の撮影も行われたという。この鳥居(Google Mapより拝借)はその南端に位置し、扁額には津原神社ではなく、何故か「玉串神社」と書かれている。onmouse-up

若江郡・仲村なかむら神社 2月21日

式内・仲村神社。菱江の町内に鎮座する。河内平野ど真ん中の“水”にかかわる地名は旧河内潟の痕跡をとどめるが、延喜式編纂時微高地ですでに人々の農耕・漁撈を主とした生活が営まれていたに違いない。 仲村(なかむら)神社 菱江村にあり。〔延喜式〕出。(中略)此地の生土神とす。例祭、九月廿七日。疱瘡を病もの祷れは霊応ありとて、遠近、こゝに詣する事多し。(河内名所圖會)」

左は拝殿、右は本殿(覆屋内)。いずれも西(微南)向きだが、一の鳥居は境内南西隅にあって真南を向いていた。

水神社とご神体の池(ただし干上がっていた)。事ほど左様に当地は“ありすぎても困り、無いと尚困る”水をいかに自分達の支配下に置くかが人々の最大関心事であった。そのためお社には竜神を祀り、池・井戸を大切に保全してきた。

久世郡・旦椋あさくら神社 2月16日

近鉄京都線大久保駅から程近く式内・旦椋神社一の鳥居。燈籠には「天満宮/大久保村」とあった。

実に質素な神門。この手前の参道を道路が横切っている。向こうに見える白っぽい屋根は拝殿(絵馬殿?)。

旦椋神社本殿。次の雙栗神社ほどではないが鮮やかな彩色が眼を惹く。それにしても「旦椋」を「あさくら」と読むか?確かに「旦」は「あした=朝」だし、「椋」は「小椋佳」でおなじみだが。一の鳥居前の保育園でボランティアらしきおじさんに聞いて初めて識ったのであった。“聞かんとわからん”。ちなみに「旦椋」になったのは明治10年のこと。それまでは次の通りだったという。栗隈天神社(くりこまてんじんやしろ) 伊勢田の巽、大久保村にあり。『順和名』に載する「久世郡栗隈里」これなるか。郷名はかはるといへども、神号はいにしへの義を用ゆるなり。祭神、天満天神。例祭、九月八日。当社およびこれより南山城郷に至って天満神の社多し。これすなはち『延喜式』に出づる神代の天神にして、八百万の内なり。土人これを弁へずして、みな天満天神と称す。綴喜郡天神森のやしろ、この類なり。(後略:都名所圖會)」。つまり明治初期に式内社の一つとして比定されたという。この類のいかに多いことか。

久世郡・雙栗さぐり神社 2月16日

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西に向いた雙栗神社一の鳥居。参道は東方向に延々300m。途中に佐山村寄進の大燈籠があり「村中安全」とあった。ここでは「氏子中」の銘ではなく当時の村名が記されている。

突き当たりで左(北方)を向くと、これだ。本殿までまだ150m。とんでもない方向にあるが、都名所圖會の挿絵で18世紀末もほぼ同様だったこと判明。onmouse-圖會up

絵馬殿。ここからあと、神社の構築物は全て南面する。

本殿前の拝所。本殿同様の鮮やかな彩色。

雙栗神社は明治15年今の社名に改名(復旧ともいうが)された。18世紀末の都名所圖會に曰く、椏本八幡宮(あてもとはちまんぐう) 大久保の西の方二十町ばかり、佐山村の林の中にあり。林中東西三町余、南北二丁、森々として大木多し。祭神、石清水。近郷佐古・市田・林等の生土神とす。例祭は九月九日、神輿二基あり。(後略)」 15世紀末に作られたと伝えるこの色鮮やかな本殿は国の重要文化財。

久世郡・室城むろき神社 2月16日

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木津川堤防をすぐ前にしたここ式内・室城神社は、一の鳥居が西面し、本殿をはじめとする諸殿舎がすべて南面する、雙栗神社と似通っている。

当社は17世紀木津川の大洪水ですべて建物・記録が烏有に帰したという。onmouse-堤防からの見下ろし。ここ室ノ城むろのぎ一帯はどうやら木津川沿いの微高地のようだ。

室城神社本殿。当社には妙観院という神宮寺があったが、明治の廃仏毀釈ですべて廃され、平安時代の作といわれる観音像1躯が近くの迎接寺に移されているという。都名所圖會を精査したが当社に関する記事は発見できなかった。

久世郡・荒見あらみ神社 2月16日

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前2社同様一の鳥居が西面する式内・荒見神社。鳥居の束にかかる掲額に屋根がついていた→onmouse-up

そして社殿はすべて南面する。これは拝殿ならぬ(多分)絵馬殿。

これは拝殿、というより「拝所」というべきか。見事なここ荒見の鎮守の森に囲まれた当社は、実は論社の一だという。城陽市にも同名のお社があり鎮座地は「富野字荒見田」である。(当社も都名所圖會に載っていない。)

本殿。

実に雰囲気のある空間。左から本殿・拝所・絵馬殿。

乙訓郡・與杼よど神社 2月16日

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式内・與杼神社一の鳥居。南面する。正面は社務所だ。参内してすぐ左を向くと→。

拝殿の向こうに比較的新しいかわいい本殿。onmous-旧本殿up。実は昭和50年子供の花火遊びで焼失し昭和55年再建されたという。

與杼神社拝殿。東面する。拝殿とは言い条、これは舞台であって、この前で拝するわけではない。当社は延喜式では乙訓郡。旧社地は乙訓郡水垂村に鎮座していた。20世紀初頭桂川の流路拡幅工事で移転のやむなきに至り、明治35年淀城内に移築された。旧社地は現在桂川の川原となっている。故にそれ以前に書かれた都名所圖會もそのことを念頭に読み取らないといけない。「淀姫のやしろ は小橋の西にあり。祭る神は三座にして、中央は淀姫の神。ひがしの間、千観内供。西の間、天神、若宮は本社の西にあり。多宝塔には大日如来を安置す。当社は千観法師の勧請なり。このところの産沙神とす。例祭は九月二十三日、神輿一基あり。宮の渡しは、当社の鳥居前より桂川の落ち合ひを小橋の北詰への舟わたしをいふ。唐人雁木といふは、朝鮮人来朝のとき、大坂より河舟にて登り、このところより陸地を行くなり。(後略:都名所圖會)」。
 因みにこの拝殿は国の重要文化財だが、焼失した旧本殿も重文であったという。

守山・新川にいかわ神社 1月18日

新川神社拝殿と本殿。延喜式に上新川神社とあり、野洲川左岸に鎮座する。もう一座は同じく右岸(野洲市内)に鎮座。ネット情報によれば上新川(カミノニフカハ)神社とあるので、ひょっとして“丹生川”の可能性もあるか?

新川神社正面。

同じく神楽殿。

馬路石邊うまじいそべ神社 1月18日

県道504号線バイパスに面する社名標柱「式内 馬路石邊神社」。

一の鳥居。200mになんなんとする桜並木の参道のちょうど真ん中付近に位置する。

同社神門。茅葺。西北方向に向いた参道がここで45度右折れし、門から本殿まではほぼ南面する。

神門に架かる扁額「石邊神社」。明治15年(1882)とある。

拝殿+本殿。

神楽殿。延喜式内の神社。ネット情報では馬路石邊(ムマミチノイソヘ)神社と書かれている。「馬」は古くは「u-ma」ではなく「m-ma」であったという通説通りだ。

野洲・新川にいかわ神社 1月18日

野洲川右岸鎮座の新川神社正面。守山在とともに式内「上新川社」の論社であるが、両方とも正しいのだろうという。鳥居扁額には「新川大神社」とあった。

本殿。

正面鳥居の向こうに勧請吊。その向こうは、もう終ったのだろう、とんど(左義長)をビニールシートで覆っていた。

神楽殿。右奥鳥居のそばに右記記念植樹のロウバイが見える。

十数年経過した成人式記念植樹のロウバイ。3回に亘る植樹の立て札があるが他の二つは見えず、うち一つはあろうことか南天の木に掛けられていた。

行事ぎょうじ神社 1月18日

行事神社一の鳥居。150mほどの参道が用水路つきで保存されている。

行事神社は式内社ではないが、その佇まいに歴史を感じさせるお社だ。これは二の鳥居。

二の鳥居内側に勧請吊。ネットで調べると、各地にあるものだが、滋賀県下のお社で特に多く見かける由。

本殿。