雪見御所から兵庫の津へ  2012年2月4日

♣ AZハイキング第129回例会“平清盛栄華の地を巡る”下見 ♣

少し早めに家を出て十三で特急に乗り換えると、なんと、車両中某歩く会のオバサン方で満員。身なりはどう見ても六甲山に登るいでたちではない。おまけに同じ三宮でぞろぞろと降りハル。ヤーな予感。
 それはともかくK大人と落ち合い、地下鉄大倉山駅頭に降り立つ。♪空は青空、二人は??♪。まず大倉山公園通過から今日の旅路開始。

予定ルート:地下鉄西神・山手線大倉山駅→大倉山公園→荒田八幡神社→湊山小学校の横→湊川公園→厳島神社→能福寺(兵庫大仏) →札場の辻→築島寺→築島水門→清盛塚→薬仙寺→和田神社→地下鉄海岸線和田岬駅

大倉山公園は「神戸花の名所」にも指定されているとのことだが、如何せん一年中で一番花の少ない季節。ここは西端の高台にある古い石碑の一つ「克忠克孝」。天皇に忠義、親に孝行を尽くせというあの時代を思い出させる。

神戸大学病院の北辺を掠め、ちょっとした高台に“孤立”状態の荒田八幡神社。宅地開発のせいだろう、社殿は南面するのに参道は北・西の駐車場側にある。

ここ荒田八幡は平清盛の弟「池の中納言」平頼盛公の山荘の地だと言われている。1180(治承4)年清盛は2歳の安徳天皇を奉じて遷都しとりあえずここを行在所あんざいしょとした。これは境内に建つ「安徳天皇行在所址」碑。(翌日には「雪の御所」に移る)

荒田八幡神社拝殿。

行在所址碑に並んで建つ「福原遷都八百年記念之碑」

荒田八幡神社から北へ天王谷川を遡り雪御所の橋を渡ると、湊山小学校の北西角に「雪見御所旧跡」の碑がある。清盛が太政大臣を辞した1167年以来別荘とした地。安徳天皇はここで半年ほど過ごした後京都へ還幸する。

天王谷川が石井川を合して新湊川となる地点にある慰霊塔。1938年の阪神大水害で亡くなった616名を偲んで建てられた。

神戸が誇る商店街「東山商店街」。規模は関西bPといわれる。古くはこの付近を旧湊川が南流していたが、水害が相次いだため、会下山の下を貫通する新湊川が1901年にできたのち旧河川敷を開発して作られた。なお、荒田町や新開地の地名もこの故事に由来する。

湊川公園に聳える「大楠公像」。今回のテーマ“平清盛(源平)”とは全く関係がない。時代も150年ほど楠公のほうが後だ。・・・勘違いしそうなのは乃公だけかな?

新開地駅を越えて右するとビル群のなかに朱塗りのお社が見えてくる。「兵庫弁天」とも呼ばれる厳島神社。

厳島神社拝殿。清盛が大輪田泊大改修完成を祝い、繁栄を祈願するため、一門が守護神として厚く崇敬していた安芸宮島の厳島神社より市杵嶋姫命を勧請して建てた。一名「兵庫弁天」。

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JRをくぐり2号線をわたって道を右に取ると、ビルの合間に突如大仏が見えてくる。能福寺境内の大仏。1891年に初めて作られ、戦時供出を余儀なくされ、1991年再建されたという。onmouse-up

大仏前の基壇(多分鐘楼跡)に源平戦没兵士を弔ったであろう五輪の塔が置かれていた。境内から出土したものという。『KOBE de 清盛 2012』がこの辺から盛んになる。

能福寺本堂。これは京都東山の月輪御陵にあった拝殿「月輪影殿」を戦後移築したもの。

本堂前にあるジョセフ・ヒコの英文石碑。大仏見物の外国人のため寺の由緒を書いたものという。1892年。

能福寺境内には平相国と称された平清盛の廟があり、平清盛が京都で荼毘にふされたとき、この寺の住職が清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝える。十三重の石塔の前でちょうど『KOBE de 清盛 2012』の住職の説明が行われていた。ここに限らず神戸は1000年前のものと、せいぜいここ100年以内に作られたものが混在している。

能福寺は清盛が剃髪入道したことで大伽藍がつくられ八棟寺と称された。*境内でひときわ色鮮やかなマユミ(真弓/檀)の種皮。昨年1月仁徳陵で見たなァ。

幕末刃傷事件で切腹することにより国際紛争を未然に防いだといわれる備前岡山藩士「滝善三郎正信慰霊碑」

札場の辻。西国街道兵庫津の中心の辻に置かれた高札場。1月に訪れた奈良猿沢の池畔のと同じだが、ここは街角の説明板があるだけ。半分コンクリに埋もれた「左 築島寺/右 和田御岬」と刻まれている(らしい)碑。この碑は片割れが某所にあるというミステリを仄聞した。

水門前に展示された古代大輪田泊おおわだのとまり石椋いわくら。築島造成にあたって土台として埋め込まれた重さ約4トンの巨石の一つ。

水門のすぐ前に来迎寺。ネット上で様子は知っていたが、残っている遺物とピカピカの本堂との落差に改めて吃驚した。右手前の石碑は『築島寺』とある。

境内にある清盛寵妾妓王妓女ゆかりの五輪の塔。

松王小児こでい入海の供養塔。攝津名所圖會には暴風雨と大波で築島工事は難航し、卜占で捕らえられた30人の代わりに申し出て人柱となった香川城主の嫡子松王小児の悲話が残っている。しかし平家物語(六)には「清盛は人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから『経の嶋』と名付けられた」という記述があるという。どれがホントなのだろう。

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兵庫区花街道看板に曰く【「清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった」と、平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決め、平成17年に清盛像(きよもりくん)を製作し、ここ入江橋の傍らに設置しました】。onmouse-up

新川運河沿いに群れ飛ぶゆりかもめ。余り物怖じしない。シャッターを切るのを待ちかねたように飛び立っていった。かつての夙川尻以来だ。

清盛塚到着。と思いきや、ここは現在住吉神社の境内のようで、その一角に清盛塚、琵琶塚が、というロケーションになっている。因みにこのお社は1878年鎮座と新しい。

十三重の石塔。ドデカイものだ。13世紀末のものという。折りしも朝電車で一緒のおばちゃん連中が某歩こう会の旗のもとに賑やかに見物するのと出合った。

清盛像。気が付くとこの頃から雲が分厚くなってきた。背景の空が“白トビ”という、ヤーなパターン。

左から八棟寺銘のある燈籠、琵琶塚碑、清盛像、十三重塔婆が並び立つ。総称して清盛塚というのかな。

前の写真の撮影地点で。多くの五輪の塔があり、その前のこの碑には「平相國菩提所/八棟寺無縁如来塔」とあった。

清盛塚の前から渡る清盛橋。この兵庫運河は1900年、新川運河は1875年に出来たもので、かつては地続きであった。

橋の勾欄には源平合戦のレリーフが嵌め込まれていた。10枚余。

薬仙寺。8世紀行基開山と伝える「鉄筋コンクリート造」の古寺。あちこちで新しい建造物に出会って、古を訪ねる散策に異質なものと受け止めていたが、忘れていたことに思い当たって粛然。すべて大震災の結果なのだ。

境内にある清水。後醍醐天皇の病気平癒の故をもってこの寺号を賜ったという。傍らの碑に曰く「後醍醐天皇御薬水/薬師出現古跡湧泉」

「すてきなまちかど」レリーフ。兵庫工業高校角で見かけた。これがあちこちにあれば迷わなくて済むのだが。

和田神社。空模様が変だがまだ2時半。拝殿は南向きなのに参道=正面鳥居は東向き。ということで逆光になってしまった。

屋根の反りのないのがお伊勢さんのようで少々目新しい。三柱の祭神それぞれに由緒があり、太古は蛭子えびす社だったらしい。

和田神社南隣の三石神社。神功皇后上陸の地という碑が鳥居の脇にあり、参内すると社頭にこの神功皇后+武内宿禰に抱かれた應神天皇の像。

この地は「和田・輪田」=「わた」つまり古語で「海」なのだが、両神社とも「海」と切り離せない。諸々の伝承がそのことを如実に示しているなと感じたことであった。

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そんなこんなで、終点はJR和田岬駅。廃線が取沙汰されているのでぜひ乗ろうと目論んでいたのだが、土曜日は1日12本のうち9時から17時までの間に1本もない。このダイヤでは諦めるしかない。ということで、地下鉄海岸線で三宮・花時計前まで出て帰途につく。onmouse-wiki画像

ウーン、、、K大人下見の役に立ったのかなァ。自分だけ楽しんだような5時間(笑)で内心忸怩たるものあり。確かなのは、雪見御所跡から和田神社まで標高差40mを下ったこと。ウン。

今日の総歩数 19,506歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら