服部川から瓢箪山へ  2011年10月11日

♣ 独 行 ♣

本日のメインテーマ・服部川から瓢箪山への東高野街道付近に点在する式内社巡りの全容は 別記 に譲り、ここでは“意外な”発見であった古墳群など地域性を偲ばせるスポットアラカルトを紹介しよう。それにしても今日は高曇りでけっこう蒸し暑かった。

まず一筋間違えたため余分に登りついた墓地霊園。左から登ってきて、ここを右に突っ込んだら高安山道になる。ここで目が覚めた。

気を取り直して一筋向こうを下ったらここ、佐麻多度さまたど神社に辿りついたというわけだ。

鳥居脇には明治時代村の若い衆が力比べに使ったという力石4個。1個165kgあるという。

社殿向かって右に社叢を背にして左・山畑やまたけ神社(春日戸社坐御子神社)と右・山畑天満宮。雰囲気あるねエ。

御祖神社跡地を探してうろうろしていて大窪在の道端に見つけた石碑「左おうとごへ」
在原業平伝説のまつわる竜田への山越え道「おうと越え」の道標。(御祖さんは×)

とうとう藪の中に突っ込んでしまった。静かな溜池の先にこんなものを見つけた。曰く「愛宕塚古墳」。中には入らなかったが、古墳時代後期の径25mの円墳で、石室内部は奥行16m余、天井高4m余の巨大なものという。

愛宕塚の藪を抜け、遠くに見える玉祖たまおや神社社叢めがけて一目散。汗だくで着いた乃公を迎えてくれたのは石段脇の大楠。

ところで何を窮屈そうに抱えてござるのか。よくみるとどうも飛鳥坐神社などで見たユーモラスな棒状石造物のようだ。注連縄まで掛けてもらって。

山の際ということも与って楠をはじめとする大木が多く緑いっぱい。ただ薮蚊の多さには閉口した。末社を確認したいのに5秒と立ち止まっておれない。

コースは前後したが、参道を真っ直ぐ西に下りる。600mほど行くと都夫久美つぶくみ神社。左の石碑から右の社殿までこれですべて。再建から40年ほどしか経っていないが社叢がないとお社らしくない。

心合寺山古墳周濠にはシラサギが少なくとも5羽いた。造り出しから水鳥の埴輪が出土したというが、埴輪の作者もこういう風景を見たのだろうか。

古墳、特に前方後円墳は航空写真でもないと全貌がつかめない。この写真はGoogle Mapから借用した。矢印は左図撮影方向。

心合寺山しおんじやま古墳前方部正面。古墳時代中期につくられた前方後円墳。中河内では最大といわれる160mの墳丘長を誇る。名称は飛鳥時代に存在したと伝えられる寺院名・「しんごうじ」が転訛したといわれている。今日火曜日は定休日で墳丘に登れなかった。

東高野街道に出、鴨神社跡地を探す。碑がたっているという情報をもとに鵜の目鷹の目で左右をキョロキョロ見ているうちに右記を見つけた。(鴨さんは×)

人家の裏、ちょうど心合寺山古墳後円部の西300mの位置にあった小山に「鏡塚/寶山神社」の碑。円墳のようだが八尾市の作った説明にはもと前方後円墳だった、とある。相当削平を受けているのがありあり。

大賀世おおがせ神社の鎮座するこの小山が大賀世古墳。東大阪市の説明板には「北西の敷地からは、古墳時代の犬・イノシシ・馬などの動物埴輪や人物埴輪がまとまって発見され、また北東部から巫女や線刻で刺青を表したと思われる人物埴輪や太刀・短甲などの器材埴輪などが削平された古墳の周濠と考えられる場所から出土している」云々とあった。

梶無かじなし神社の楠も結構なものであった。

瓢箪山稲荷ひょうたんやまいなり神社全景。南北に円墳の連なる双円墳の西斜面に社殿が鎮座する。名所圖會にも記載が無いほど100年ほど前まではいわば無名の存在だったという。古墳の概要は下記参照。

玉垣の中が 大塚
碑の向こうが 鬼塚

瓢箪山古墳(山畑52号墳)鬼塚と大塚から成る双円墳で瓢箪の形に似ているところから瓢箪山と称する由縁である。これより東、山手側に展開する山畑古墳群(約60余基)の西端に存し、最古最大の古墳である。墳丘の南北の主軸の長さは50m、高さ4mで本殿に向って右側を鬼塚、左側を大塚という。大塚の横穴式石室の玄室は幅2m、長さ約3m羨道は幅4m、長さ5mで後期古墳時代前期(6世紀初め)の古墳である。この大塚は狐塚と呼ばれるように以前に神狐が住まわれていた。鬼塚南端には羨道入口の天井石が露出している。 寄贈 東大阪ライオンズクラブ

今日の総歩数 21,773歩    ̄|△| ̄   ルートマップ省略