巽神社から中臣須牟地社へ  2011年2月9日

♣ 独 行“平野周辺のお社を巡る” ♣


巽神社(式内・横野神社を合祀)】西を向いて坐すたつみ神社の一の鳥居は200m近くはあろうかという参道上にあるが如何せん、内環状道路でぶち切られている。結構立派な参道であったに相違ない。ところでこのお社の来歴はややこしい。
明治40年4月27日、旧渋川郡巽村内にあった八幡神社(祭神 応神天皇)に、村内の5社(大地字印地の横野神社(式内社。祭神 印色入日子命)・伊賀ケ字伊賀ケの天神杜・西足代字葭の内の天照皇大神社・矢柄字宮の前の熊野神社・四条字山小路の天神杜)を合祀し、村の名をとって巽神社と改称したものである。【Wikipediaから引用】
横野(よこのの)神社 大池村にあり。〔延喜式〕出。今、印色ノ宮と称す。此所の生土神とす。(河内名所圖會)


二の鳥居と拝殿。前に茅の輪がまだあった。夏越し(6/30前後)だったり元旦前後と聞いたがここのは違うのかな?


拝殿越しに望む本殿の屋根。


杭全神社杭全くまた神社一の鳥居。


参道標柱の横に樹齢1千年といわれる大楠がある。高さ約30m、太さは約10m、大阪府指定天然記念物。


大門。参道の敷石は元大阪市電の軌道敷石が使われているとのこと。撮影者の背後が工事中だった。


拝殿。


本殿。左より第一、第二、第三と並ぶ。実は本殿はさらにこの内側に鎮座している(僅かに真ん中の第二殿の大棟木が覗く)ので、見えている手前の構造物は“拝所”か。
9世紀、平安時代の初め、平野郷の守護神として第一殿が奉祀されたのが、当社のはじまりである。その後、12世紀に第三殿が、14世紀に後醍醐天皇の勅命により、第二殿が勧請せられ、ここに現在の三社の規模が出来た。古くは祇園社、熊野権現社と称せられたが、明治3年杭全神社と改称し、昭和5年府社に列せられた。(後略)
と説明板にある。背後のマンションなどおよそ見えて欲しくない壮麗な造りだ。


赤留比賣命神社(三十歩社)】平野公園に鎮座(逆か!)する赤留比売命あかるひめのみこと神社拝殿。西面する。杭全神社の摂社だがもと住吉さんの末社だったという。 三十歩神祠(さんじふぶのやしろ) 平野郷中野堂町にあり。〔延喜式〕に曰く、赤留比賣命神社。祭神玉依姫。例祭三月二十六日。夏日旱天の時、雨を祈るに霊験速なり。神木に楡の大木あり。(攝津名所圖會)


本殿。


北側から。灯籠の左右に本殿・拝殿が見える。手前から神社背後への土盛りは平野郷時代の環濠の土塁の一部。


楯原神社】喜連の静かな住宅街のなかに鎮座まします楯原たてはら神社。正面を西に向ける。ちなみに北側に隣接する如願寺はもと神宮寺。


本殿。このまわりに神社創建に与ったとされる息長氏の碑や十種神宝社などがさしたる説明もないままひっそりとしずまっていた。


本殿背後には珍しく注連縄をはった扉があった。


楯原神社(たてはらのかみのやしろ) 西喜連村にあり。〔延喜式〕に出づ。住吉に楯御前社あり、同神ならんか。證不詳。今天満宮と稱す。後世神名相変る事島下郡茨木明神の下に辨ず。當所此所の生土神とす。例祭九月二日。(攝津名所圖會)
後の時代に神名が変わることについては茨木神社の項で言及した』とあるのは→ここをご覧下さい。


中臣須牟地神社中臣須牟地なかとみのすむち神社正面。鳥居下は柵で完全に閉鎖。西方(向かって左)約100mに別の鳥居があり、そこに「式内大社中臣須牟地神社」の石碑があった。普段はそちらを使っているようだ。


本殿。覆屋だろうが何と普通のつくりで“それらしくない”のに一驚。


中臣須牟地神社拝殿。社務所が見当らず、社前の巨木、鬱蒼とはしていないがそれなりの鎮守の森、それらが何とも勿体なく思えた。ちなみに当所は住道矢田、「すんじやた」と読み、漢字変換もできる。この「すんじ」は「須牟地(スムチ)」の転訛に相違ない。鳥居前の道路を隔てて南に妙な空き地がある。道路でぶった切られた旧社地のようだ。中臣須牟地(なかとみすむち)神社 住道村にあり。今、住吉と称す。〔延喜式〕には摂州にあり。(後略)(河内名所圖會)