夜麻登波 久爾能麻本呂婆  2010年10月16日

♣ AZハイキング第113回例会“まほろばの里纒向遺跡散策” ♣

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 (やまとは くにのまほろば)
多多那豆久 阿袁加岐 (たたなづく あをかき)
夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 (やまごもれる やまとしうるはし)

倭建命の絶唱と伝えられるこの歌謡は、命が能褒野で最期をとげるときうたった歌とされる。
その悲劇的な生涯と対極的な大和の地は、2000年近く経った今でも人々の心の中で
「畳並づく青垣」の原風景を変えることがない。

Sample

JR三輪駅頭。“いざ、出陣”。卒寿の富山さんの勇姿。

大神神社一の鳥居は「大鳥居」。国道169号線に面し、高さが32m。これは熊野大社(33.9m)に次ぐもので十階建ビルの高さに相当するという。背後は三輪山。

埋蔵文化財センターで資料をいただき、旧上ツ道かみつみちを北へ歩く。正面に巨大な姿を現したのは箸墓。

箸墓は箸中山古墳ともいい、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓やまとととひももそひめのみことおおいちのはか。柳田國男によれば「市」は「巫女」の意だというが、<大市⇒大巫女⇒卑弥呼>?

古墳北北東側の箸中大池。古墳の輪郭が美しい曲線を描く。墳丘長278m、後円部径150m、高さ30m。前方部幅130m、高さ16m。

大池対岸からの箸墓全景。左へ傾ぐ斜面は背景の三輪山のもの。

メンバーに教えられてようやく気が付いた金魚の大群。池の上面にネットを張っているところから、どうやら養殖池のようだ、が。このあと訪れたいくつかの古墳周濠でも見かけた。背後の森は箸墓。

纒向石塚古墳。戦時中高射砲陣地となって徹底的に削平されて今の形になってしまった。大きな木が生えているところが墳頂。纒向型前方後円墳丘墓で規模は全長96m。

纒向勝山古墳。前期型前方後円墳で全長110m。纒向古墳群は古墳時代前期初頭の古墳群で、纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、箸墓古墳の総称。

纒向遺跡。もう埋め戻されて何も見えなかったが、邪馬台国ヤマト説が強く再燃したきっかけはこの遺跡の発掘にあったことは夙に知られている。向こうはJR桜井線巻向駅。

桜井線の踏切を渡る。単線で1時間往復4本というダイヤは“線路は続くよどこまでも”のせわしない空気とは別世界である。

穴師集落への道と上ツ道との交差に石造の鳥居があり、下に「正一位穴師大明神」の石碑があった。この道を東に辿って行き着く寺社は相撲神社そして穴師坐兵主神社あなしにますひょうずじんじゃ

垂仁天皇纒向珠城宮跡の碑。そう、この先に珠城山古墳群(後期前方後円墳)があり、その丘の上に横穴石室が露出しているのが見えた。そして余所のグループに巻き込まれながら檜原神社へ。

檜原神社社頭。遠く二上山が見える。春分・秋分の日没は二上山の狭間に入るという。

このコスモスを見ながら昼食。

仰げば秋の空はいわし雲(ひつじ雲?)。

井寺池(上池)に写る「逆さ竜王山」。

池畔の歌碑「大和は國のまほろばたたなづく青かき山ごもれる大和し美し」。川端康成の筆になる。背後は下池。

一回りして檜原神社に戻る。まあ今日は土曜日のせいか“男性・現役”さんの多いこと。境内は満員。

このお社の鳥居は大神神社のと同じ三つ鳥居。本殿のないのも同じだがここは拝殿もない。お参りして山の辺の道に戻る。

程近く玄賓菴げんぴあん。富山さん懇意の先代庵主さんがおられた時分から立ち寄るのが恒例化している。

久延彦くえひこ神社。知恵の神様として厚い崇敬をうけているらしい。現にハイカーらしからぬ参拝者がけっこう居られた。柿山展望台の近くにあり、乃公ははじめて。

久延彦神社展望台から左に遠く葛城・金剛の二山、右に二上山を望む。

石段を降りるとそこは大神神社二の鳥居。ここで失礼して一路三輪駅へ向かう。

三輪駅で列車待ちの間に独りで近くの恵比寿神社を訪う。このお社でお正月に行われる“三輪の初えびす”は日本最初の市・海石榴市の伝統を今に伝えるお祭だという。

 ということで一同打ち揃って奈良駅に向かう。

新装成ったJR奈良駅駅舎。なんとレインボーではないか。ここから徒歩で近鉄駅へ向かい、待ち草臥れて痺れを切らした杉原さんを加えてハイキング打ち上げセレモニー。お疲れさんどした。

今日の総歩数 22,125歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら

応接室にK大人ご来駕
 

行程表及び参加者

 

馬場村 ぼけ封じ地蔵尊

 

箸墓古墳

 

桧原神社

 

奈良駅まで戻って打ち上げ