高槻から茨木の山沿い三万歩  2010年4月25日

♣ 独行“北摂の式内社を訪ねて−1−” ♣

ブログに書いたとおりなのだが、延々3万歩あるいた割には5社を訪れたにとどまる。ということは、式内社を訪ねるという名目で快晴の空のもと歩きたかったということなのだ。

最近開業した阪急電車の新駅“摂津市”。そうか、摂津市には市名を冠した鉄道駅が今までなかったのか。

野見神社は濃味(のみ)郷の鎮守との伝承をもつ神社。かつて高山右近が領主のとき破壊されたということだが、いまやカトリック教会が軒を並べる。野身神社(のみのじんじゃ) 當(高槻:さえらのすし注)城内にあり。延喜式内。今牛頭天王と称す。此所の生土神とす。例祭九月十四日。攝社八幡宮、八幡町にあり。若宮永井氏の祖神なり。弁天社、共に城内にあり。(攝津名所圖會) そう、攝津名所圖會では「野見」でなく「野身」と記す。

春色芥川。阿久刀神社の木立が真ん中向こう(やや左)に見える。

阿久刀あくと神社。社名は新撰姓氏録にある阿刀連あとのむらじによるという説があるということで、芥川の名のおこりともいわれる(すべて受け売り)。なるほど芥川の土手に鎮座まします。阿久刀神社(あくとのじんじゃ) 芥川村にあり。〔延喜式〕に出づ。當村の生土神とす。今住吉明神と称す。阿久刀は芥に相通ず。(攝津名所圖會)

阿久刀神社本殿。

神服しんぷく神社。服部連はとりのむらじの伝承をもつ。ゆったりとした神域は風情がある。清水小学校の裏手。神服神社(かんはとりのやしろ) 服部村にあり。〔延喜式〕に出づ。此所の生土神とす。例祭四月八日。[姓氏録]に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。(攝津名所圖會)

神服神社拝殿。

宮之川原に広がる田園地帯。ちょうどレンゲの花が真っ盛りだ。

安威川を渡る。右は阿武山。中央遠く竜王山。

大職冠神社。国土地理院の地形図には「鎌足公古廟」とあるように藤原鎌足没後奈良県多武峰談山神社へ移されるまで葬られた地との伝承がある。

墳丘西側にかつて南側の住宅開発で失われた「将軍山古墳」の石室が当時の石材を用いて再現されていた。前期古墳ということで当然竪穴式石室

大職冠神社とは言い条、神社の建物は無く、横穴式古墳があってその前には「大職冠鎌足公古廟」との石碑(→ここ)および「将軍塚古墳」という茨木市教育委員会の表示板が建つ。これは見るからに後期古墳

茨木川の支流佐保川を渡ると福井。この近所は紫金山古墳はじめ古墳、それも前期古墳が多い。
新屋坐天照御魂神社。なんべん繰り返しても覚えきれない。東面し、福井の在所を一望する。攝津名所圖會に曰く 新屋坐天照御魂神社三座(にひやにいますあまてらすみたまのかみのやしろさんざ) 西川原村にあり。〔延喜式〕神名帳に曰く、名神大。月次、新嘗。就中天照御魂神一座。預相嘗祭云云。〔三代実録〕に曰く、貞観元年正月授従四位下。同五月新屋座天照神伴酒着神幷授正五位上云云。天照御魂神一座は西川原村にあり。近隣七箇村の生土神とす。一座は福井村にあり。今天王と称す。〔上梁文〕に曰く、天正十二年八月領主中川瀬平清秀三座を造営す。一座は上川原村にあり。称して天照太神といふ。清水村も亦祭祀を共にす。

天照御魂神社拝殿。

天照御魂神社石段下から北望。真正面が竜王山。

梅花女子大学のキャンパス。
この近所は東から追手門、関西大倉、梅花、早稲田摂陵、阪大と学校の並ぶゴールデンエリア。

須久久神社。まあ実に雰囲気のあるお宮さん。いままでこの下(少し山にかかったところにある)をよく通ったが、全く気付かなかった。この社名石碑。いいねエ

須久久神社。この鳥居だけが鄙びていてなんともいえない。須久久神社二座(すくくのじんじゃにざ) 鍬靱。〔延喜式〕に出ず。宿久の庄にあり。(攝津名所圖會)

日曜日だというのにどこもかしこもひっそりかん。写真を撮るには至極条件がいいのだが。
このご時勢に神社詣ででもないのかもしれないが、お寺よりはなぜかお宮さんに惹かれる。延喜式神名帳は927年にまとめられたというからこれらのお宮さんは1,100年以上前から存在していることになる。

後日記: なぜか今日の写真は全体的に紫っぽい。よく考えると、これはその直前に色温度調整を弄くったまま(蛍光灯下?)放置していたからに相違ない。マシンは正直である。

更なる後日記: 今年当サイトのWサイズを750pxから800pxに変更したが当ページだけはそのまま放置した。理由は原画から新サイズ画像を切り出したところで色温度調整を1から試みる元気がなかったことに尽きる。(2019年記)

今日の総歩数 31,103歩    ̄|△| ̄   ルートマップはこちら